2009年07月10日

「光」

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三浦 しをん 著
集英社 出版

 作者が築き上げる世界観にわたしは共感できた作品でした。

 小さいながらも自然豊かな美浜島はある夜、突然襲った津波にのみこまれ、すべての家が押しつぶされてしまいます。生き残ったのは、たった六人。14歳の信之と美花、彼らの幼馴じみの輔(たすく)の三人は、家を抜け出して高台で会っていて助かりました。輔の父親である洋一と観光客の山中は海にいて、灯台守は灯台にいて災難を逃れます。

 しかし、せっかく助かった山中も、生きて島を出ることはありませんでした。それから、二十年近くの間、信之、美花、輔は接点を持たずに暮らします。しかし、ある日突然、また三人は接点を持ちます。
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 求めたものに求められず、求めていないものに求められる。よくある、だけどときとして取り返しのつかない、不幸だ。
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 そう語られるとおり、関わり合いになりたくないと強く願っているのに、求められる。その連鎖によって、不幸が広がっていきます。輔の父親は息子を食い物にし、輔は信之に救いを求め、信之は美花だけを愛し守ろうとします。しかし、美花は……。

 日常に何気なく起こる不幸だけに、共感できました。ひとの思い込みは、堅牢でもあり、脆くもあります。何ひとつ疑う余地がないと思っていたことも、ある日突然崩れさることもあります。津波にのみこまれた小島のように。しかし、ものごとの境界線は常に曖昧で、それらを明確に分けるのは本人の思い込みだけ。そして、その思い込みは、それぞれが違い、とても脆いもの。

 以前に読んだ「仏果を得ず」とずいぶん雰囲気が違う作品で、とまどいました。

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2009年07月08日

「言語世界地図」

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町田 健 著
新潮社 出版

 言語に関するトリビアが詰まっています。初出が「フォーサイト」という雑誌の連載だったので、各言語の特徴が新書サイズで4ページという決まったスペースに収められており、広く浅く知りたいと思う方向けの構成になっています。

 全世界では六千あるとも七千あるとも言われている言語ですが、名前だけしか知らない言語でも五十も挙げられないわたしにとっては、小さな驚きや納得の連続です。

 驚いたのは、違う言語なのに通じ合うということです。島国に住んでいると実感がわきません。たとえば、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語は似ていて、それぞれの言語で話していても通じるそうです。その差異は大阪弁と標準語程度と書かれてあります。やはり距離的に近くて人が行き来しやすいということはことばも混じっていくということでしょうか。

 同じようにポーランド語、チェコ語、スロバキア語は違う言語ですが、ロシア語の話者なら話が通じるそうです。おもしろいのは、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語は西スラブ語でローマ字表記なのに、ロシア語は東スラブ語で、キリル文字表記だそうです。ことばは音から始まったからでしょう。

 あと驚いたのは自分が大きな勘違いをしていたことに気づいたことです。この本では言語体系についても触れられていたので、英語とフランス語が違う分類に入っていることに気づいたのです。あんなにフランス語の単語が入っているから英語はフランス語と同じグループに入っていると、学生のときからずっと思いこんでいました。なのに、英語は、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語と同じ「北欧語」の仲間で、フランス語は、イタリア語、スペイン語、ルーマニア語などと同じ「ロマンス諸語」の仲間だそうです。日常的に使っている英語のことだけに、読み間違いかと思って、ページを行きつ戻りつしてしまいました。

 どうも、1066年にノルマン朝を開いたのがフランス語の方言を話していた集団だったこと、20世紀初頭までは外交言語としてフランス語が強かったことにより、英語にはフランス語の借用語が多いだけのようです。これは、日本語で英語の外来語を多用しているようなものなのでしょうか。長年まちがったことを信じていたわけですが、とりあえず死ぬまでに正しいことを知ったので、よかったことにしたい気分です。
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2009年07月06日

「ビロウな話で恐縮です日記」

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三浦 しをん 著
太田出版 出版

 タイトルにあるとおり日記です。

 日記ならではのエピソードのおもしろさも楽しめます。たとえば、11月10日に給湯器が壊れてしまい、11月20日に修理してもらっていること。十日間、朝の洗顔はどうするか、晩の風呂はどうするか、わたしのほうが悩んでしまいました。自分の部屋の給湯器が使えなくなったとき、ビジネスホテルに部屋を取り、翌日修理に来てもらい、それはそれは大騒ぎになったことをよく覚えている身としては、あまりに淡々とした記録に、こちらがうろたえてしまいました。結局、著者はひとり暮らしのようなので、両親の家までお風呂に入りに行ったことにしよう、と勝手に決着をつけました。(実際は、どうもあまりお風呂には入らないようです。)こういうおおざっぱなところ、お友だちになってぜひ見習いたいです。(お友だちにならなくても、見習えるという事実はともかく。)

 ほかにも、「そういう人いるんだ」といった観点からの小さな発見がいろいろあります。しをん女史は、カバーの掛かった文庫本を見て、どこの文庫かわかるようです。電車のなかで、涙ながらに文庫を読んでいる男性に興味を覚え、同じ本を読もうとした、しをん女史。フェルマーという文字が上部にちらりと見えたこと、カバーが掛かっていながらも紙質などから新潮文庫と察した彼女は、新潮文庫の「フェルマーの最終定理」を手に入れ、二日後にその感想を書いています。わたしにはカバーが掛かっている本がどこの本なのか想像もできません。それに読んでみようと思った本を実際に読むまで数か月掛かることも珍しくありません。自分と比べたときの差の大きさが激しすぎて笑えます。

 「極み道」で笑えなかったわたしですが、今回はいつも通り笑えました。「極み道」で笑えなかったのは、わたしの体調が悪かったわけでもなんでもない気がしてきました。この日記のしをん女史は大学生くらいの年代を「若者」と呼んでいます。やはり、社会人目線を共有できるようになったということでしょうか。期待したとおりのおもしろさでした。
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2009年06月26日

「翻訳のさじかげん」

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金原 瑞人 著
ポプラ社 出版

 タイトルは「翻訳のさじかげん」ですが、特に翻訳がテーマになっているわけではありません。翻訳家である著者の視点から見た、ことばの色々を中心に綴られたエッセイです。といっても、著者の好きな伝統芸能や骨董のことも話題に取り上げられ、ことば一辺倒ではなく、緩やかにことばと結びついているかたちです。

 全体的にわたしが持った印象は、「こういう細かいことまで気がついたり、気にしたりしないと、ことばを使った仕事はできないのか」と思ったことです。いくつか、具体的な内容を挙げてみます。

 一番めは、三浦しをん氏との対談部分。三浦氏の「仏果を得ず」を読んだ感想を金原氏が話しているのですが、最初に触れたのが主人公が住む建物の名前。「ラブリー・パペット」というのですが、それをいつどの段階でひらめいたのかを訊ねています。金原さんはその名前から「本当に文楽が好きなんだろうなあと思いました(笑)」と言っています。わたしは、その一文を読むまで、文楽とパペットが繋がっていませんでした。パペットといえば、糸で吊り下げられぎくしゃくと動く固定観念がありました。まさか、文楽がパペットとはね。

 二番めは、「ヘボンさんの末裔」の中から。オードリー・ヘップバーンの映画の話題から、いきなりヘボン式ローマ字の話に移っています。読んでいて、思わず「へ?」と言いそうになるところですが、種明かしはこうです。オードリー・ヘップバーンはAudrey Hepburn。ヘボン式ローマ字のヘボンは開発した人の名前。ヘボンさんは、James Curtis Hepburn。そう、ヘップバーンとヘボンは同じなのです。気づかないですよね、なかなか。

 三番めは、「シンデレラの靴」から。シンデレラの靴がガラスだったというのは有名ですが、実はもとは皮靴だったのではないかという推測です。フランス語では皮靴は"pantoufle de vair"、ガラスの靴は"pantoufle de verre"。"vair"も"verre"も発音は同じ"ヴェール"。そこでこんな推論が展開されています。フランス語のシンデレラがイタリア語に翻訳される際、訳者が取り違えて、ガラスの靴になってしまった。そしてそのイタリア語版がフランスに逆輸入される際、おもしろいのでガラスの靴のままにしたという説です。いろいろ考えますね。

 もっと好奇心をもって接すれば、今までも同じことを見聞きしても、今までより多くのことを得られるのではないかと思った本でした。
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2009年06月25日

「サウスバウンド」

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奥田 英朗 著
角川書店 出版

 物語の中心は、東京中野に住むひと組の家族です。両親に小学六年生の二郎と小学四年生の桃子。語り手は二郎のほうです。反政府思想をもつ活動家だった両親がいる家庭は、小学生には馴染みのない話題に満ちています。公安だとか革命共産主義者同盟とかオルグとか。同級生のお父さんのように毎日会社に出かけていく父親が欲しいと思っても、現実は正反対で、一日中家にいて税金や年金納付を拒み続け国の搾取を主張する父親です。二郎は、あまり幸せそうではありません。加えて、学校でのいじめなどのトラブルにも巻き込まれます。

 しかし、そんな家族に転機が訪れます。それがタイトルの「サウスバウンド」。南に向かって移住します。それまでの東京暮らしとは天と地ほどの開きがある暮らし、父に対する感情の変化、兄妹の成長など、起伏に富み、下巻に入ってから一気に読み進めてしまいました。二郎の父親を含めた大人を見る視線、友人たちとの付き合い方やその価値観などの移り変わりが印象に残ります。

 読みやすい文体、爽やかな子どもの成長物語、変化に富む展開など、読んでいて楽しいことは間違いない作品です。でも、なにかこう作品の主張が薄く、わたしとしてはあまり満足できませんでした。無難なエンタテイメントといったところでしょうか。文章がうまくきれいにまとまっているのですが、著者の世界観というか、もう少し訴えかける響きが欲しいと欲ばりな気持ちが起こりました。
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2009年06月24日

「ぬかるみに注意」

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生田 紗代 著
講談社 出版

 何気ない日常のできごとを綴った短編ばかり四編収められています。

−ぬかるみに注意
−カノジョの飴
−浮いたり沈んだり
−魔女の仕事

 日常を切り取ったかのような作品は数多くあります。でも、そういう作品の大多数には、作者が特別気にかける何かが伝わってくるのですが、これらからそういう何かを感じられませんでした。それは、わたしには「不思議な感じ」をもたらしました。

 なので、自分なりに想像というか推測してみました。まず、作品を読みながら、読者が自分の過去から何かを自ら見つけ出してくれるのを待っている作品なのかもしれないと思いました。あるいは、わたしが振り返っても思い出せないくらい若い世代の人たちだけの価値観で成り立っている作品なのかもしれません。若者には若者の価値観があります。そして、そのなかの一部を、長年社会人として過ごしてきた世代も覚えていると思うのです。それは、失ったことを懐かしんだり、持っていたときを羨んだり、そういう類の一部のものだけ。そして、厳密にはもとのかたちを留めていない少し幻影や嘘が入ったもの。だから、若い世代のリアルな価値観が作品のなかにあっても、わたしには共感が感じられないのかもしれません。

 どの推測が的を射ていても的外れでも、わたしには、もっとわかりやすい作品が合っていると思います。
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2009年06月22日

「乳と卵」

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川上 未映子 著
文藝春秋 出版

 東京に住む女性の語り手が、大阪に住む姉の巻子とその娘緑子が遊びに来たのを迎えるところから、送るまでのできごとが書かれています。2泊3日のできごとです。

 母親のほうの巻子は、自分の胸にコンプレックスを持ち、豊胸手術を受けることを考えています。妹とふたり銭湯に行っても、食い入るように他人の胸を見つめそのかたちについて語り続けます。一方、娘のほうの緑子は女になることを受け入れ難く、すでに卵子を持って生まれてきた自分のからだを受け止められずにいます。

 そんなふたりが「乳と卵」なのですが、生殖に関わることだけに、子どもを産むということや女というだけでなく母親になるということも含まれています。つまり、この親娘にはこの親娘なりの問題があり、娘は母親に対して口をきかず、筆談で済ますという態度をとっています。

 なんとなく、卵、乳、子、と象徴的につながってきて、話の最後には玉子がでてきます。ここまでくると、なんとなく「象徴するものを全部くっつけてみました」という感じに受けとれて、秀才の作文を読んでいる気分になってしまいました。

 第138回芥川賞受賞作品です。
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2009年06月18日

「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」

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水村 美苗 著
筑摩書房 出版

 日本文化を、日本人としてのアイデンティティを、日本語を考えるとき、ぜひ読んで欲しいと勧めたくなる本です。ただ、読むことで得られることは多いと思う一方で、この中で提示されている解決方法は解決したことにならないのではないかと疑問を持ちました。ただ、そういうことも含め、考える機会が与えられたという点で優れた本だと高く評価したいと思います。

 この本の構成は次の通りです。

一章−−アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
二章−−パリの話
三章−−地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々
四章−−日本語という<国語>の誕生
五章−−日本近代文学の奇跡
六章−−インターネット時代の英語と<国語>
七章−−英語教育と日本語教育

 全体としてみれば、一章から三章は、自分たちの言葉<国語>を持つことの意味や特異性を考える導入といえるでしょう。四章および五章は、漢文が日本に伝わってきた頃や近代文学が栄えた頃などの過去に遡り、日本語やいかに偶然や環境に恵まれ、国語となっていったかが専門家以外でも理解できる範囲で書かれています。ここまでの範囲は、そう言われてみればその通りだ、と納得できることばかりで、意識下に別々の事柄としてあったことが、自分のなかで繋がっていくような感覚がありました。著者の言葉により、他者(外国および外国語)という比較対象ができ、身近で当たり前と受け止めている日本や日本語をより深く理解できました。

 そして、六章は現代の状況です。英語が普遍語として広がってきた様が説明されています。これは、自分の目でも見てきたことなので、とても共感できます。そして、日本語が亡びつつあるということは、明治、大正、昭和初期の文学作品を読むときだけでなく、日々の暮らしのなかでも感じられることなので、著者の言い分はその通りだと同意できました。

 問題は七章です。著者は、国民全体はもっともっと国語(日本語)を受け継ぐべく、国語教育を充実すべきだと説いています。それは、誰もかれもが日本語で(文学作品などを)書けるようになるという意味ではなく、<読まれるべき言葉>を読めるようになる、受け継がれるべき言葉を読み続けられるようになるために必要だと主張しています。そのためには、今の英語偏重の教育を改めるべきだというのです。英語は一部の人たちに精鋭教育を施せばいいという論調です。たしかに、英会話学校が溢れ、そのテレビ・コマーシャルが絶え間なく流れる現代の日本の環境は、異様かもしれません。でも、それには理由があるのではないでしょうか。たぶん、著者のような研究や文学活動が生活の中心になっている方々にはわからない理由が。

 現代の日本は経済大国といっていい国だと思います。その経済を支え、便利な生活を支えるには、国も個人も価値を創造し、対価を得る必要があります。わたしのような労働者は「働いて収入を得る」必要があります。現代において、何か価値を、たとえば製品をつくるにしても、他国の技術をもとにすることがよくあります。また製品を売るにしても、国外にも売らなければ開発などの費用の採算が合わないこともよくあります。そんなとき、普遍語である英語ができなければ、情報難民です。わたしのような末端の末端にいる技術者であっても、情報難民であれば、職を失う不安は膨れ上がるでしょう。将来ある子どもには、そんな不安を背負わせたくないから、誰もかれも見境なく英語に走ってしまう。わたしにはそう思えるのです。なにか手作業をして収入を得られる時代ではないのです。物価がずっと安い国々に建てた工場に仕事は移っていきます。その不安のなかで、普遍語の魅力は大きいと思います。

 実際、英語で情報を吸収したり発信したりできる人たちが多く散在しているから、成り立っている集団というのは意外に多いのではないかと思うのです。また、そういう人たちが散在しているから、日本語に訳されて存在できる情報が多いのではないかとも思うのです。本当に一部の人たちだけが英語に長けている状態で、今の経済活動は成り立つのでしょうか。

 自分が見える範囲で考えると、著者の解決方法に賛成はできかねますが、代替案も思い浮かびません。ただ、教育だけに目を向けるのではなく、社会の仕組み全体に目を向けないと解決できない気がします。つまり、みんなが普遍語に感じる無条件な安心感のようなものを必要としない社会構造にならなければ、国語に目を向ける人は減っていく気がします。
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2009年06月16日

「ミレニアム2 火と戯れる女<上><下>」

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ミレニアム2 火と戯れる女 (上下巻)
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書評/ミステリ・サスペンス


 前作の「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」のときと同様、読み始めると止められません。何時間も読み続けて、肩が張ってきても止められず、楽しいのか痛いのかわからないまま、読み通しました。

 今回、展開の中心となっているのは、リスベット・サランデルの過去。強烈な個性で読者をつかんだに違いない彼女の際立った能力や個性の成り立ちが明らかになります。前作でも"十分共感できる"登場人物だったのですが、今回はさらに意外なことが見えてきて、彼女が感じた閉塞感や孤独感が伝わってくるだけに、彼女の強さに羨望を覚えました。

 物語は、前作で大金を手に入れたリスベットが長い旅に出ているところから始まります。ふたたび、スウェーデンに戻ってきて間もなく、リスベットはある事件の容疑者として、大々的に警察から追われる羽目になります。社会性が著しく欠如しているリスベットですが、次々と彼女を応援しようとする人たちがあらわれます。ミレニアムという雑誌の発行責任者であるミカエル・ブルムクヴィスト、リスベットの元雇用主ドラガン・アルマンスキー、リスベットの元後見人ホルゲル・パルムグレン、リスベットにボクシングを教えていた元プロボクサーのパオロ・ロベルト。しかし、リスベットはリスベットで得意の調査能力を活かして、自分で全容を把握しようと動きます。

 事件を追う警察内部は、メンバそれぞれの思惑で分裂し、十分な捜査がなされません。読者は、それを苛立たしく思いながらも、ミカエルなどリスベットを応援する人たちに引き込まれていってしまう展開です。

 次のシリーズ第三弾が待ち遠しいです。リスベットは社会復帰できるのか? ミカエルとリスベットの関係は? ミレニアムは存続するのか? 何より気になるのは、過去において不当に扱われることしかなかったリスベットが、当作で信頼してくれる人たちを得たことにより、次作でどう変わるのかです。

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2009年06月10日

「極め道―爆裂エッセイ」

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三浦 しをん 著
光文社 出版

 「おかしい」。読んでいて最初に浮かんだ感想です。

 今までにも数冊同じ作家のエッセイを読み、毎回楽しく笑えていたのに、おもしろくない。あれだけ笑い声をたてて読んでいたのが嘘のように、つまらない。そんなはずはないと読み進めて、はたと気がつきました。これは、著者が学生時代から社会人になった当初の作品です。学生時代の就職活動がネタになっている箇所にきて気づきました。初出を調べると、1998年11月15日から2000年6月4日まで、Boiled Eggs Onlineの掲載となっています。(この文庫の初版は2007年6月です。)

 ということは、著者の当時の年齢とわたしの今の年齢差が開き過ぎておもしろくないということでしょうか?

 そう思いながら考えたのは、やはり著者も現在に比べると未熟だったのではないかということです。三浦氏は、本人も認めるオタクです。でも、まったくオタクの世界を知らないわたしでも楽しく読めていたのは、そのあたりの不足を補う解説がきちんとエッセイに含まれてたからです。しかし、本作品は少し解説不足のようです。知人友人ファンなどからの反響で、一般の人々のマンガなどに対する知識レベルを著者本人が徐々に把握できるようになっていったのではないかと、読み終わってから推測しました。もうひとつは、著者自身が自分の論理に熱が入り過ぎていて、「言いたいことはわかりますが、そこまで熱くなられるとちょっと」と思う箇所もありました。そのあたりを、あくまでもサラッと言ってのける余裕を見せて初めて人に伝えることができるのではないか、そういう偉そうな推測を立ててみたりもしました。

 でも、一番の発見は、どんな人にも経験は大切なことなんだな、ということです。(実際は、わたしが鬱状態で笑えなかっただけで、本作品には何の瑕疵もなかったかもしれませんが。)

 これはこれで、「あの直木賞作家も、就職活動に汲汲としていた時期があったんだ」と思えた点で読んだ甲斐はありましたが、やはり「しをんエッセイ=ストレス発散」というわたしの中の等式を崩さないよう、あまり古い作品は選ばないよう決めました。
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