2014年06月30日

「Q」

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ルーサー・ブリセット (Luther Blissett) 著
さとう ななこ 訳
東京創元社 出版

 自由や自治を得んと命を賭して体制と闘ったひとりの男の半生を描いた作品です。三部構成になっていて、いずれもひとりの男の視点で描かれています。ただ、途中に挿し込まれる内容によって、読者には騙す側と騙される側の関係が早くからわかるようになっています。

 その騙す側の密偵の素性が明かされていないため、最初は読者だけが、そのうち語り手である男も一緒になって、騙したのが誰かを突きとめようと過ぎ去った部分を反芻しつつ、最後の闘いへ向かって物語は展開します。

 帯には「全世界で100万部突破」や「イタリア最高の文学賞ストレーガ賞ノミネート」などと謳われ、『薔薇の名前』+『ダヴィンチコード』+〈007〉とありますが、そこまでのエンタテイメント性はないと思います。ダヴィンチコードのように薀蓄が楽しめるわけでもなければ、〈007〉のようなスピード感もありません。

 そして結末は妥当でありながら、すっきりとしない読後感を残します。ドイツやイタリアの聞き慣れない名前と格闘しながら、ひとりの男がどのように名を変え、身を隠したかを必死に追って辿りついた読者が読む結末としては、残念ながらあまり満足できるものではありませんでした。
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2014年06月29日

「ロウソクのために一シリングを」

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ジョセフィン・テイ (Josephine Tey) 著
直良 和美 訳
早川書房 出版

 イングランドを舞台とする警察小説なのですが、地元警察の署長の娘が活躍する場面もあって、敏腕警部が颯爽と事件を解決するというより、地道にひとつひとつ可能性を潰しながらやっと犯人に辿りつくといったタイプの犯人探しです。

 とりわけ楽しめたのは、人物描写です。主役にかぎらず、登場人物はみな、その行動や発言から個性が浮きあがってくるように活き活きと描かれています。わたしの好みでは、署長の娘エリカが抜きんでています。(ちなみに、このエリカとエリカが助けたロバートという青年の部分は翻案されて、アルフレッド・ヒッチコック監督の「第三逃亡者」(1937年)になっているそうです。)

 ほかにも冒頭で死体となって登場するクリスティーン・クレイは、生きているときの描写はほとんどありませんが、彼女の遺言書が雄弁にその人となりを物語っていて、想像が膨らみました。(タイトルの「ロウソクのために一シリングを」は、その遺言書からきています。)

 また、主人公のグラント警部の人物観察が意外に細やかで、くすりと笑える場面もありました。このグラント警部は、ほかの作品にも登場するようなので、読んでみたいと思います。
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2014年06月28日

「湿地」

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アーナルデュル・インドリダソン (Arnaldur Indridason) 著
柳沢 由実子 訳
東京創元社 出版

 一気に読み進めたくなる勢いのある作品です。家庭が崩壊した中年男性刑事が担当する殺人事件の捜査からは、一直線に犯人まで突き進んでいく印象を受けます。その一直線の道筋を支えているのが現場一筋の刑事の勘であり、突き進む原動力となっているのは犯罪に馴れることなく真相を追求する刑事の熱意です。そのあたりの人物造詣もこの作品の大きな魅力になっています。

 またこの作品の舞台となっているアイスランドがどのような土地なのか、読者の興味を惹く巧みな構成になっています。冒頭、69歳の男性が殺害され、現場を見た若手刑事は、証拠隠滅を図ろうともしないアイスランドの典型的な犯行だと言います。「アイスランドらしさ」がどういうものか実感が湧かなくても捜査が進むにつれ、その社会の狭さが感じとられるようになり、最後に明かされる謎がまた島国であるアイスランドの特徴と強く結びついています。訳者あとがきによると、この「アイスランドらしさ」は作家の作品に対するこだわりのひとつのようです。

 三十万人しか話者のいないアイスランド語で書かれたこの作品は、様々な言語に翻訳されシリーズで700万部売れたそうです。翻訳された作品の場合、この作品のようにその国らしさが感じられるというのは、ひとつの魅力になると思います。
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2014年06月27日

「女郎蜘蛛」


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パトリック・クェンティン (Patrick Quentin) 著
白須 清美 訳
東京創元社 出版

 女郎蜘蛛と呼ぶに相応しい登場人物にピーター・ダルースは、翻弄されます。しかも徹底的に。

 このダルース夫妻シリーズは、事件に巻き込まれ、乗り気ではないのに探偵の真似事をせざるを得なくなるタイプのコージーミステリですが、今作はその追い詰められ感が尋常ではありません。なにしろ夫のピーターは、愛する妻アイリスからの信頼を失うかというところまで追い詰められます。(ちなみにこの「女郎蜘蛛」がダルース夫妻シリーズの最終作品だそうです。)

 秀でた人物造詣を楽しめると同時に少しばかり恐怖も味わえます。読んでいて「こういう女性っているよね」と小説相手に勝手に頷いているうちはいいのですが、そのうち「こういう人たちとの付き合い方を間違えると怖いのね」と、妙に現実的な危機感が感じられるようになり、この策略の綻びがどこかにないかと目を皿のようにして捜したい気分になるのです。

 ピーターは、物語の前半では、もっぱら愛する妻や社会的信用を失うのではないかという不安に陥り、後半になって初めて警察に追われるという悲壮感に包まれるため、犯人探し部分が、些かスピーディ過ぎる展開になっている気がしないでもないですが、最後までひと息で読みたくなる魅力があり、存分に楽しめました。
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2014年06月19日

「女のいない男たち」

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村上 春樹 著
文藝春秋 出版

 9年ぶりの短篇集ということで話題になっていました。(ノーベル文学賞候補になる作家なので、短篇であれ長篇であれ話題になるのだと思いますが。)

 以下が収められています。

−ドライブ・マイ・カー
−イエスタディ
−独立器官
−シェエラザード
−木野
−女のいない男たち

 村上作品で短篇といえば「東京奇譚集」を思い出すわたしとしては、読む前に期待していた雰囲気にいちばん近かったのは「木野」でした。ファンタジーとも言いきれないけれど理屈でも説明しにくい不可解さ、言葉にすれば嘘っぽく聞こえるけれど確かなことを知っている感覚などが、「東京奇譚集」の「品川猿」を読んだときの印象に似ていた気がするためです。

 まえがきで、女のいない男たちは、女抜きの男たちとは異なると書かれてありました。男同士でいこうと意図したものではなく、時として不意に失うといった嬉しくもない状況がこの短篇集で描かれています。要約してしまえば、いつか失うという怖れや失ってしまったという事実と向き合う辛さが描かれているのですが、そういう身も蓋もない端的さでは伝わらない『失われたモノ』や『失われるコト』に共感できる部分がありました。

「ドライブ・マイ・カー」で語る男は、「でも結局のところ、僕は彼女を失ってしまった。生きているうちから少しずつ失い続け、最終的にすべてをなくしてしまった」と言っています。眼の前に相手がいるときから、少しずつ失い続けたというこの感覚がとても身近に感じられました。

 自分にも思い当たる喪失感が随所に登場し、読んでいるあいだは集中できたのですが、それでもやはり村上作品としてわたしが読みたかったのは、「木野」のような作品だった気がします。