2019年04月10日

「笑いの方法 あるいはニコライ・ゴーゴリ」

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後藤 明生 著
つかだま書房 出版

 ゴーゴリの作品のうち「鼻」と「外套」が著者の翻訳で掲載されています。わたしにとって「鼻」は、「外套」と違って『変 (へん)』としかいいようのない作品なのですが、著者の主張を読んでから「鼻」を読むと違った印象を受けます。

 著者は、ゴーゴリ作品の笑いは『諷刺』ではないと主張しています。諷刺は、ひとつの立場であり、またひとつの『思想』だと述べ、この『思想』は括弧つきのもの、つまりその時代における進歩というものの概念だと説明しています。しかしその立場も思想もゴーゴリにはなかったのだから、彼の作品は諷刺ではないという理屈です。

 では、これらの作品にある可笑しみ、笑いは何なのでしょうか。ゴーゴリは、『実話』 (つまり現実) でさえあれば、必ずそこに『滑稽さ』というものを発見することができ、その滑稽さは、人間の存在そのものにもおよぶと考えていたのではないかと著者は推察しています。そしてゴーゴリ作品の笑いは、そのような滑稽な存在としての人間、および、そのような人間と人間の関係としての現実 (世界) を捉える装置であり、構造としての笑いだったと著者は考えています。

 そんな考えを突きつけられても、自分の存在そのものの滑稽さをわたしは実感できません。もしかしたらその理由は、内側から人間を見ているから気づかないだけなのかもしれません。だから外から、この場合はゴーゴリの作品を通して見た場合、その滑稽さが見えるのかもしれません。「鼻」に登場するアクシデント自体は当たり前とは程遠いのですが、アクシデントに対する人間の反応はごくごく自然に見えることから、そう思い至りました。

 著者は死ぬまでゴーゴリについて考えがまとまることはないといっています。それほど壮大なテーマの雰囲気が少し味わえた本読みでした。
posted by 作楽 at 20:00| Comment(0) | 和書(エッセイ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする