2009年01月08日

「文章の品格」

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林 望 著
朝日出版社 出版

 「品格」本が流行っているので、こういうタイトルなのかな、とは思いましたが、タイトルだけが浮くことなく、著者の言わんとすることに沿っているので、「売れるためだけのタイトル」につられて読んでしまったときのような嫌悪感をもつことはありませんでした。

 自分自身がいつも迷うことが書かれてあり、とても参考になりました。わたしが迷うことのひとつは、どこでひらくかひらかないか。著者のガイドラインは、以下です。品詞との組み合わせで考えていらっしゃるところが、なるほど、と思いました。
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 私の場合も、このどこまで漢字を使うか、というのは微妙で難しい問題として残っています。
 たとえば「いっぽう」という言葉。
 これを、
「いっぽう、私は違う考えをもっていた」
 というように副詞的に使う場合と、
「彼は一方の総大将であった」
 というように単純な名詞として用いる場合とでは、どうもちょっと意識が違ってきます。私としては、前者の場合はやっぱり平仮名で書いたほうがしっくりくるし、後者だったら、やはり漢字のほうが適切に思える。
 同じようなものの例として、
「・・・・・・したとき」と「時をはかる」
「いっさい知らない」と「一切合切」
「ところで」と「こんな所に」
「じつは、知らなかった」と「実(じつ)がない」
「・・・・・・にちがいない」と「大きな違いだ」
「ふつう文節で切ったりはしない」と「普通郵便」
「いや、あれにはしょうじき閉口した」と「正直な人」
 のように、本来は同じ語なのだけれど、でも文脈によって仮名で書くときと、漢字で書くときを使い分けるというようなものも、じつはたくさんあります。
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 もっと意外だったのは、統一性に関する考え方です。
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 たとえば
「そのときのみんなのあきれた顔を忘れることはできません」
 というような文章があったとすると、これをkのようにずらずら仮名続きの形で書いておくと、やっぱり直感的に意味が取りにくい。
「そのときの、みんなの呆れた顔を忘れることはできません」
 というように、読点を一つ挿入しつつ、「呆れた」を漢字にすることによって、はるかに読みやすくなる、ということが分かります。だから、「アキレル」という動詞はつねに平仮名で「あきれる」と書き、あまり使わない漢字である「呆れる」は避ける、というような原則を立てて、かたくなにこれを墨守するという必要もないのだと、私は思っています。
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 上記のように、読みやすさを基準に、ひとつひとつ前後のことばを見ながら手を加えていくということであれば、本や論文などのくくりのなかで統一する必要もないということなのでしょう。逆にいうと、単純作業のように文章を見直していくのではなく、同じものはふたつとないという気持ちで推敲なさるということでしょうか。考えさせられました。

 最後に品格のこと。文章の本でありながら、日常のことば使いについて言及なさっています。書く基本は話すこと、ということのようです。たしかに一理あると納得できました。
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 ただ、使えないからといって、無自覚に敬語を放擲し、あるいは下品な言葉なども意識せずに使っていると、結局そういう言葉で発想することになり、それではどうしたって格調ある文章は書けようはずもありません。
 だから私はいつも言うのです。
 よい文章を書こうと思ったら、まず日々の話し言葉を洗練せよ、と。まず自分の言葉がこれでいいのだろうか、という「反省」がなくてはなりません。そして反省を加えた結果として、もし自信がなかったら、周囲の大人たちのなかで、いつも正確に、また上品に話している人を見つけて、そういう人とよく話をすることです。ただ話すだけでなくて、もし自分の言葉の使い方がおかしいというようなことがあれば、忌憚なく指摘して訂正してください、と頼んでおくといいのです。
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 周りの方々に直接指導いただくという機会が時代とともに少なくなっているような気がするなか、新鮮な教えだと思いました。直接ご指摘いただくような幸運に恵まれなくても、人のことばに敏感になり、お手本を探す気持ちで臨むだけでも、効果があるような気がします。
posted by 作楽 at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(日本語/文章) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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