2009年02月26日

「新約聖書訳と註 3 パウロ書簡 その一」

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田川 建三 訳
作品社 出版

 「新約聖書を知っていますか」を選んだくらいなので、新約聖書のことを何も知らないのですが、翻訳、言語、宗教などの点から興味深い本です。著者の本来の目的とはたぶん違うので、いささか申し訳ないのですが。

 著者は、新約聖書の解説を書こうとしていたら、既存の日本語訳をもとにした場合、古代ギリシア語の解釈が間違っているのではないか、英語からの重訳のために意味がずれたのではないか、宣教の観点から都合のいいように変えられたのではないか、という点が多く、まずは原文に忠実な訳が必要なのではないか、という考えに至ったそうです。たしかに、解釈しようとするときに、この訳の場合はこの部分が不適切と思われるという説明のほうが多くなったら大変です。

 著者は、代表的な訳書に対して、解説しているのですが、それを読むとかなり興味深いです。

 まず、当時は印刷技術誕生よりずっと前なので、写本になるのですが、やはりこれだけのものとなると、すごい量の写本があるらしく、そのどれを採用するかによって内容が異なってきます。文章の流れとして自然でないから写本家が修正を加えたことも考えられますし、人間ですから思い込みで写し間違えたりすることもあるでしょう。そのあたりの事情を考えながら、どれを採用していくかを解説なさっているあたり、ときには迷いも伝わってきたりして、研究者の苦悩が垣間見えます。

 次はやはり、書簡という性質から、理路整然としていなかったり、書き手の個性が顕著に出ていると思われる点です。そこまで言うかな、と思ってしまうほど、著者は手厳しく批判しています。
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何せこの人は、自分の文章に自己矛盾がいくら多く存在しようと平気のへいざ、その瞬間瞬間に好き勝手なことを言いつのり、次の瞬間にはそれとまったく矛盾することを言うのもまったく平気な人なのだから。
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 使徒の中でも別格として扱われているパウロでさえ、ここまで言われるのです。また、こんなことも書かれています。
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パウロは何とか自分の主張とイエス自身の発言を区別して説明しようと試みはじめる。しかし、そもそもパウロはイエスの発言など極端に僅かしか知らないのだから、それを区別しはじめたら、自分の言っていることは、あれもこれも何でも、イエスの発言ではありません、イエスとは関係のない私の意見です、と言わねばならなくなってしまう。だからパウロはその努力が嫌になって、第二コリントス書簡になると逆に居直り、自分はかつて生きていたイエスのことなどもう相手にする気はない、と宣言してしまうのである。
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 イエスが今の時代のキリスト教を見たら、どう思うのかを想像すると笑えてきます。でも、途中で内容が変化しない伝言ゲームなどありえないわけです。新約聖書としてまとめられているものの大部分はイエスの死後、かなりの時間を経て書かれているわけですから。でも、こう具体的に指摘されると、実感の湧き方が違います。

 かなり辛辣な口調なので、これを延々6巻読み続けるのは辛いかもしれません。たしかに、現在一般的に普及している訳書には、勝手な解釈が訳に入り込んでいることも多いでしょう。しかし、著者自身が指摘されているように原文が支離滅裂なら、ほかに現実的な選択肢はなかったように思います。訳する理由は、読んでもらうことにあるのですから。そして、読んでもらいたい一番の理由は、宣教にあると思うのです。その目的の前に、原文から離れてしまったのでしょう。研究目的からすると、許されないことだとはわかります。でも、一般的な人は、読んでわからなければ、継続できない場合のほうが多いでしょう。著者の解説はとても興味深いですし、元の意味をより正確に知りたいと思われるかたには、よき案内書になってくれることと思います。
posted by 作楽 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(宗教・神話) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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