2012年02月02日

「雪の練習生」

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多和田 葉子 著
新潮社 出版

 日独二か国語で作品を発表しているベルリン在住の作家が2010年に発表したものです。構造がそれぞれ違う三篇が収められています。

−祖母の退化論
−死の接吻
−北極を想う日

 最初の「祖母の退化論」の祖母の子がトスカで「死の接吻」に登場します。トスカの子がクヌートで「北極を想う日」に登場します。帯を見ると、祖母、トスカ、クヌートというホッキョクグマの三代記のようにも見えます。”三代記のようにも見えます”となってしまうのは、わたしが異なった解釈をしたからです。

 祖母は、ふとしたことで過去を思い出し、それを書き綴ります。そしてそれが出版され、作家になります。その作家としての作品が「死の接吻」であり「北極を想う日」であるとも読めるのです。

 全体として、さまざまな境界が曖昧に感じられ、境界のどちら側と考えてもいいように意図的につくられているのではないかと思えるほどです。たとえば「退化」とあっても、実際は「進化」を指しているようにも読めます。実際、祖母は期待されるものを書くだけの窮屈な作家から、好きなものを書ける自由を手に入れます。また、ホッキョクグマとあっても、そのまま人間と置き換えて読めます。人間社会を揶揄しているようにも読めますし、嘆いているようにも読めます。

 そう考えていくと概念の境界とはいかに不安定なものなのだろうと思えてきます。クヌートはベルリンで産まれました。だからクヌートのふるさとはたぶんベルリンです。少なくともクヌートはそう思っています。でも、動物園にいるクヌートを見にくる客は、クヌートのふるさとは北極だと言います。

 わたしは自分以外を対象にして、「〜人」という表現を日本語でうまく使えません。ユダヤ人という言葉をどう使っていいのかもわかりませんし、人生のどこかで国籍を変えた人のことも国籍を複数持つ人のことも、「〜人」に該当するあたりを長々と説明して「〜人」という言葉を避けます。それと同じように、クヌートのふるさとはベルリンにも思えるし、北極にも思えるのです。

 そんな風に、いろんなことが自分が関わる何かに重なって見えてくる作品でした。おそらく、作家がイメージした風景や人物と同じものを読者が思い描けるように描写されているというより、概念が描写されているという印象を受けたのだと思います。それは概念の説明とも違う気がします。

 言葉というか表現方法が独特で、日本語として破綻しているわけではないけれど馴染み深いなめらかさに欠け、翻訳されたもののようなごつごつ感があります。

 わたしにとって、おもしろい作品でした。
posted by 作楽 at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(日本の小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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