2013年09月29日

「黒船来航 日本語が動く」

20130929「黒船来航 日本語が動く」.jpg

清水 康行 著
岩波書店 出版

 わたしがいままで考えたこともなかった話題を取りあげた本です。

 日本の鎖国時代にやってきた黒船が幕府を揺るがし、「泰平のねむりをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も寝られず」とまで歌われたとき、どのようなプロセスで条約が交わされたかを取りあげ、その契約行為がどのように日本や日本語に影響を与えたかを考察しています。

 黒船来航は1853年のことです。浦賀沖に姿を見せた船に対し日本側は、フランス語で記した退去勧告文を見せています。つまり、ペリー一行との最初の接触は、フランス語だったわけです。翌年、日米和親条約を締結した際、日本側はあるいやがらせを仕掛けました。条約締結内容は、(1)漢文版、(2)蘭文(オランダ語)版、(3)英文版で作成されました。しかし、いまでいう通訳翻訳者を通しての意思疎通なので、日本は、(1)を翻訳した(4)漢文和解版と(2)を翻訳した(5)蘭文和解版を作成しています。そして、いやがらせというのは、日本全権が署名したのが、この(4)漢文和解版のみ、米国側が署名したのが、(3)英文版のみだったということです。

 つまり、正文のない条約だったわけです。この本を読まなかったら、そんな条約を日本が締結していたことも、日本が日米双方が同じ文書に署名するのを拒んだという事実も知らなかったことと思います。

 この5種類もの文書を操っての条約締結は、いろいろ大変だったようです。通訳翻訳者は黒子という現代の常識と違って、当時の通訳翻訳者は大きな影響力を持っていたうえ、いまでいえば誤訳にあたるような言語間の齟齬もあって問題になったようです、そのあたりのエピソードも興味深いのですが、もっと面白いと思ったのは、英語が唐突に入ってきた点です。

 日米和親条約を交わした結果、英国とも条約を締結する羽目になった日本は、1854年日英和親約定を交わしています。その翌年、つまり黒船来航から2年後の1855年、英国は、日英和親約定副章の草稿で、両国間交渉での使用言語を英語のみにするよう日本に要求しました。世界唯一の大国としては、当然のことを言ったまでかもしれませんが、学問といえば漢文、洋学といえばオランダ語だったろう状態の日本が受けたインパクトは、いかほどだったのでしょう。米国に対し、英文版には署名しないと拒否してからそう時間をおかずに、日本は、英語を習熟するまでの猶予を欲しいと英国に頼むことになったのです。

 こうしてさまざまな山を越えて条約を交わす回数を重ねるうち、漢文が排除され、英語に重きがおかれ、いろいろな変化が見られるなか、日本語自体も変化していったと著者は言います。それはあの候文が排除される傾向が強まっていったということです。

 外交が与える影響を言語に限ってみていくというのも新鮮だと思いました。
posted by 作楽 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(日本語/文章) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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