2018年03月06日

「歎異抄」

20180306「歎異抄」.png

唯円 著
川村 湊 訳
光文社 出版

 浄土真宗の開祖・親鸞の弟子である唯円が、親鸞の死後その教えが、歪められ、異なったものになってゆくことを憂え、歎じて、それを正すために書いたものといわれるこの歎異抄ですが、わたしは原文で読む力がなく、現代語訳で読んだ(、あるいは授業などで読まされた)記憶があります。でも、この現代語訳からは、以前とはまったく違った印象を受けました。それは、関西弁で書かれてあるためです。

 歎異抄には、親鸞が語ったことばを聞いたままに再現した部分と、唯円が親鸞と交わした会話を書いた部分があります。どちらにせよ、親鸞が話した内容といっていいと思います。関西に生まれ育った者にとっては、やはり話ことばイコール関西弁 (大阪弁、神戸弁、京都弁、河内弁など、それぞれに差はあるものの、標準語とは違うことば) なので、こうして関西弁の現代語訳を読むと、唯円という人物が耳にしたことを語っているという雰囲気がリアルに伝わってきます。思い切った訳だと驚きました。

 特に、九(条)で、浄土に行きたいという気持ちが起こらないと打ち明ける唯円に対し、自分も同じことを感じていたと率直に伝える親鸞のことばは、親鸞の人柄が滲みでているように感じられました。

 ところが、Amazon のレビューを見たところ、低い評価が目立ちました。関西圏のことばで生活していない方々にとっては、単に読みにくい訳でしかなかったのかもしれません。私にとっては、読む前に期待していた以上に斬新かつ読みやすかった訳だけに意外でした。

 ただ、私は宗教に関してはあまり関心がなく、親鸞の教えをある程度理解できても、気持ちが揺さぶられることはありませんでした。特に、業縁によって人の行ないが決まるように読める十三(条)は、腑に落ちません。それが喩えであっても、当時は狩りをしたり魚を釣ったりして食糧にするのも悪とされるような、現代と異なる善悪の定めがあったことを考慮しても、納得しがたいものがあります。

 宗教に傾倒するには、他力本願であろうがなかろうが、まずは救われたいといった願望がないと難しいのかもしれません。
posted by 作楽 at 05:00| Comment(0) | 和書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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