2018年06月04日

「断髪のモダンガール――42人の大正快女伝」

20180604「断髪のモダンガール」.png

森 まゆみ 著
文藝春秋 出版

 大正時代に若い女性が髪を短くするということは、未婚の場合は結婚できなくなること、既婚の場合は夫を亡くしたことを意味したようです。そんな時代の『断髪』という言葉は、ここでは単にアイキャッチャーで、「42 人の大正快女伝」というのがこの本の中身です。

 もともとは、望月百合子を一冊の本にする予定が、肝心な部分を調べきれず、彼女と交友のあった女性たちを中心に同時代の女性たちをまとめたようで、現代でも名を知られた女性たちが多く含まれています。そのため、望月百合子の眼を通して、ここに登場する女性たちを見る傾向があります。別の表現をすれば、ここに登場する女性たちは、互いを直接知る機会が得られるほどの小さな輪、つまり社会的活動を許されたひと握りの存在だったということでしょう。

 この 42 人のなかで、もっとも印象に残っているのは、与謝野晶子と平塚らいてうです。

 与謝野晶子は、夫の寛がパリに滞在した際、夫から呼ばれるままあとを追って 1912 年 (明治 45 年) 4 月に洋行しています。そのとき、光 (ひかる)、秀 (しげる)、八峰 (やつお)、七瀬 (ななせ)、麟 (りん)、佐保子 (さほこ)、宇智子 (うちこ) の 7 人の子育て中で、一番下はまだ 2 歳だったそうです。

 その翌年、夫よりひと足先に帰国したのは、身ごもったからでした。その後、アウギュスト (のちにc (いく) と改名)、 エレンヌ、健 (けん)、寸 (そん・2 日で死去)、藤子と産み、後世に残るほどの作品を生みだしながら、11 人の子供を育てたいうことです。与謝野晶子の歌を多少知ってはいても、妻や母としてどう家を支えたのか思ったこともなく、驚きました。

 そのいっぽう、平塚らいてうは、頭でっかちなお嬢様だったようです。1911 年 (らいてう25歳) に月刊誌『青鞜』を発刊 (創刊号では、7 人の子育て真っ最中の与謝野晶子が寄稿) したものの、1915 年には、二十歳そこそこの伊藤野枝の手に明け渡しています。『青鞜』は、その後 1 年少ししか続かず無期休刊となったとか。『青鞜』=平塚らいてう=婦人解放論といったわたしのイメージは、誤りだとこの本に指摘された印象を受けました。 
posted by 作楽 at 05:00| Comment(0) | 和書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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