2007年08月23日

「翻訳家の仕事」

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岩波書店編集部 編
岩波書店 出版

 ロシア語翻訳・通訳の第一人者だった米原 万里氏がエッセイでこういう内容のことを書かれていました。翻訳をしていると言うと、英語が堪能で羨ましいなどという返事が返ってくる。外国語といえば英語、と決めつけていると。

 たしかにそういう傾向はあると思います。でも、私は密かに、時間が許せばスペイン語を勉強したいなどと思っているので、外国語=英語という図式は持っていません。それでも、私の考える翻訳の範囲というのは狭いものでした。この本を手にとったとき、翻訳とは、外国語→日本語、あるいは日本語→外国語、という図式を持っていたのです。

 この本の中にはもちろん私がイメージする翻訳を仕事とされる方の話も含まれています。しかし、それだけではありません。古語を現代語に訳すという翻訳家のお仕事も含まれています。そう言われると、たしかにそれも翻訳だと思います。それと同時に、翻訳の定義とは何なのだろうかと今さらながら、翻訳ということばの意味を考えてしまいました。

 執筆者のひとり、松永 美穂氏はこう書かれています。
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「翻訳」という場合、通常は異言語間の翻訳を指すことが多いが、考えてみれば人間はいろいろな場面で「翻訳」を行っている。古典を現代語に訳したり、方言を標準語にしたり(最近は「なまり」ブームで、標準語を方言にするのもはやっている)、赤ちゃんのしぐさからその気持ちを読みとったり、動物の鳴き声を翻訳したり、さらには展覧会の絵を音楽に翻訳し、音楽を聴いてそれを絵画や映像やダンスに翻訳したりもする。「翻訳」は「解釈」や「理解」とつながる重要なコミュニケーションの一形態だ、と思う。翻訳者は時代を超え、さまざまな死者たちとも交信できる。古代の卵を温めれば、何かすごいものが孵ってくるかもしれない。翻訳は「宝さがし」+「伝言ゲーム」+「飼育ごっこ」のようだ。おもしろくて、まだ当分やめられそうにない。
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 翻訳家たちはみな、松永氏の言う「解釈」や「理解」の部分に苦しみ、それを元のものとは違うかたちで表現するという産みの苦しみともいえる、卵を孵すような過程に悩み、正解のない問題に挑んでいるように見えます。それでも、つかの間の喜びのために、翻訳を続けているようです。表現者の意図をしっかりと受け止められたと感じる瞬間、そしてそれを新しい表現として納得のいくかたちにできた瞬間など、それぞれに高揚があるのがわかります。

 しかも翻訳の成果が、多くの人に読まれ、何かを与えることができると考えるだけで、傍観者の私でさえ、わくわくします。

 表現という手でつかめないものを、自分の中で受け止め、それを別のかたちの表現にする。苦しみながらも、
posted by 作楽 at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(英語/翻訳) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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