2007年09月03日

「ことばが劈(ひら)かれるとき」

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竹内 敏晴 著
筑摩書房 出版

 私は演劇には縁がありません。また、教育の現場に生徒という立場以外で参加したこともありません。でも、演劇の専門家として、教育の場に関わりを持つことになった竹内氏のこの本には、興味を惹かれることが色々ありました。

 その中のひとつ。

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演技とは、からだ全体が躍動することであり、意識が命令するのではなく、からだがおのずから発動し、みずからを超えて行動すること。またことばとは、意識がのどに命じて発せしめる音のことではなく、からだが、むしろことばがみずから語りだすのだ。
 形が、ことばが、叫びが、生まれでる瞬間を準備し、それを芽生えさせ、それをとらえ、みずからそれに立ちあい、みずからそれにおどろくこと、これが私にとって、今のところ、劇という名の意味するものだ。そのような美しい瞬間があるに違いない。自分がほんとうに自分であるとき、もはや自分は自分ではない(意識しない)というような瞬間が。からだが見、からだが感じ、からだが叫び、からだが走るのだ。
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 著者は、子供の頃、耳が聴こえませんでした。一時期聴力を回復するものの、悪化したり片方の聴力を失ったりと、ことばを話すには不利な状況下にいました。その経験があったからこそ、ことばを発するとはどういうことかを深く考えられたのだと思います。

 ことばを話すということは、口を動かし、喉を振動させるという動作ではなく、からだ全体が伝えたいと欲するものが自然と溢れ出てくるようなイメージが、本を読んでくると浮かんでくるようになってきました。

 たしかに、人が何かを人に心から伝えたいと思ったとき、そのことばの占める割合というのは意外と少ないものです。声もその一部として機能しているものの、からだ全体を使っているような気がしないでもありません。そして、そのようにからだごと何かを伝えているときのことばは劈かれているといえるのでしょう。

 しかし、もともと楽ではない二本足歩行に加えて、ストレスなども多い今の世の中、からだが歪み、伝わる発声がきちんとできている人が少ないと著者は言います。たしかにそのとおりですし、私もそのひとりです。

 からだの緊張をほぐし、自らのからだを知り、溢れるものに身を任せて発することばこそ、伝わるのかもしれません。そういうからだをつくっていくことは大切なことであり、これから育つ子供にとって大切なことだと思います。著者がたとえ一部の児童とでも触れあい、彼らのことばを劈いていくさまは、本当の教育とは何かを考えさせられます。

 著者の教育における活動は、「からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために」に詳しく書かれていましたが、そこに至るまでのご自身の子供の頃のこと、演劇で試行錯誤されたことなどが書かれているこの本を読めば、なぜ子供たちのからだをそだてなければならないのか、ということが理解できます。

 しかし、からだそだては、子供時代で完結するものではありません。大人になっても必要なものであり、人と関わりが深くなれば一層、からだからことばが飛び出し語ることができるからだをつくる必要があると痛感します。

 少し古い本で、引用される文章もとっつきにくい感じがするのですが、不思議と著者の思いが伝わってくる本でした。
posted by 作楽 at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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