2008年02月29日

「ヒューマン・ファクター」

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Graham Greene 著
加賀山 卓朗 訳
早川書房 出版

 私はスパイものを読みません。なんとなく、実感がわかないからです。

 昔、ベルリンの壁を見たことがあります。東ベルリンと西ベルリンの雰囲気の違いにとまどったことも覚えています。でも、その直後、ベルリンの壁は崩壊しました。東西の壁がなくなった、その印象が強烈で、スパイという見たこともないものに対するリアリティが、より感じられなくなりました。それが、スパイものが好きになれない、ひとつの理由だと思います。もうひとつの理由は、ジェームス・ボンドです。あの映画で誰もが知っているスパイのイメージがこの上なく嘘くさく、私の好みに合いません。行動面では華やかで、ありとあらゆる能力を駆使しているのですが、内面があるのかないのかつかめないところが、落ち着かない気分になるのだと思います。

 でも、この本は訳者に勧められて読んでみました。舞台は大昔ではなく、なんとなく知っているような昔です。電話があって電報もあるけど、携帯電話もメールもない。通貨は、今と同じポンドだけど、たった1ポンドで駄菓子のようなチョコが数十袋も買えてしまう。最初はそういう背景にとまどいましたが、人物や事件がクローズアップされるうちに、気にならなくなりますす。

 主人公のカッスルは、62歳。いつ引退するかを決めかねている年配男性。黒人の妻セイラとその子どもサムと暮らしています。郊外にローンで家を買い、駅まで自転車で通い、駅からオフィスまで電車通勤する毎日。普通のサラリーマンとなんら変わらない日常に見えます。

 一方、妻や子どもに危険が及ぶかも、妻や子どもと離れるときがくるかも、と不安を抱えながら、日々を送っています。また、家族にも同僚にも、本音を吐露できない苦しみを抱え、過去をひきずり、孤独に耐える姿から、スパイという仕事の辛さや志が伝わってきます。

 そして、いざというときのカッスルの決断。いっとき離れる家族。物語は意外な方向に進みます。

 カッスル、セイラ、サム。行動やことばから、それぞれが、描かれています。カッスルの描写の中で一番私が好きなのは、自分の勘のよさを隠し、組織のなかで目立たないようにしているところ。自分を追い込まない術を心得ているように感じられ、共感できます。そして、愛する者をもつリスクを自覚し、上司にそのリスクを背負わせないためにも、引退を考えているところ。失うものをもつことの意味と怖さを知っている魅力がでています。

 人が魅力的に効果的に描かれていれば、時代を超えて読める本というのはあるものだと、再認識しました。
posted by 作楽 at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(海外の小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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