2008年04月18日

「目に見えないけれど大切なもの―あなたの心に安らぎと強さを」

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渡辺 和子 著
PHP研究所 出版

 著者は、出版当時72歳だった、シスターです。20代後半でシスターとなり、海外へ派遣されたあとは、大学の学長などを務められたそうです。

 経験豊富な人生を歩んでこられただけあって、老いの受け入れ方や人との接し方など、「そうだ、その通りだ」と共感できる部分がたくさんありました。その一方で、シスターとしての考え方については、私が初めて考えさせられるようなこともありました。ひとつは、なぜ人を殺してはいけないのか、という問いに対する答え方です。ある生徒の「自分が殺されたくないから」という答えをたとえにして、その答えには宗教的信念がない、と著者は指摘します。自分は殺されたくないのに、私たちは食すために牛、鶏、豚、魚などを平気で殺している。なぜ、人はだめなのに、動物はいいのか、ということも含めた答えになっていないということなのです。その答えを知るためには、著者は宗教教育が必要だと訴えています。
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広義の宗教教育とは、「神の似姿」として一人ひとりの生徒の人格を尊重し、賦与されている(他の動物には与えられていない)考える力である理性と、選ぶ力である自由意志を育ててゆくことではないだろうか。
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 神は、人間をつくる際、他の動物を支配するようにおつくりになった、というのです。私にとっては、なんとなく、しっくりこない答えでした。たしかに私たちの命は、動植物の命の犠牲の上になりたっています。日常では、スーパーのプラスチックトレイに入れられている牛肉を見て、牛の命に結びつけることはありません。でも、あらためて考えてみると、たしかに私たちは牛を殺しているのに、罪にとわれることはありません。逆に、どんな罪人であっても、理性や意志を失った人でも、殺せば罪にとわれます。やはり、その答えは宗教にあるのでしょうか。

 もうひとつ考えさせられたのは、尊厳死です。延命装置によって命をながらえるより、尊厳死を選ぶことの善悪がよく議論になりますが、それだけが尊厳死の問題ではないと、気づかされました。著者は、かの有名なマザー・テレサのことばを引用しています。ある人が、マザー・テレサに尋ねました。医薬品が不足しているのに、生き延びる可能性のある人ではなく、もう死から逃れられない人に対して、薬を与えるのはなぜですか、と。暗に、無駄ではないですか、と訊いたのです。すると返ってきた答えは次のようなものだったそうです。
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「私たちの『死を待つ人の家』に連れてこられる人々は、路上で死にかけているホームレスの人々です。彼らは、私たちの『家』で、生まれてから一度も与えられたことのない薬をのませてもらい、受けたことのない優しく、温かい手当てを受けた後、数時間後、人によっては数日後に死んでゆきます。その時に彼らは例外なく『ありがとう』と言って死ぬのですよ」
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話し終えたマザーは、感にたえたように、"It is so beautiful."(それは本当に美しい光景です)と呟き、その後で静かに、「人間生きることも大切ですが、死ぬこと、それも良く死ぬことは、とても大切なことです」と言われたのであった。通訳をしていた私は、あの異臭の漂い、蝿の飛び交う、粗末な建物の中での"美しいし"、惨めな一生の最後に、"尊厳"を身にまとって死んでゆく人々の姿を教えられた思いであった。
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 でも、生きている間、どれだけ豊かな暮らしをしていても、尊厳ある死を迎えられないこともあると著者は指摘しています。もちろん尊厳ある死を迎えられるよう準備することも大切ですが、どんな死に方であれ、「思し召し」に委ねることも必要だというのです。神の存在を信じる信じないにかかわらず、あるがままを受け容れるという考え方には共感できました。
posted by 作楽 at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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