2012年02月03日

「羊をめぐる冒険」

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村上 春樹 著
講談社 出版

1973年のピンボール」の続編にも思える作品です。”続編にも”と変な表現になってしまうのは、「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」とは少しテイストが違っているからです。ジャンルとしてファンタジーだとは言いきれないけれどその要素も感じられる「1Q84」のような感じです。でも、登場人物は鼠と僕が中心になっていて、「1973年のピンボール」のその後の時代、僕の20代最後の時期が描かれています。

 ある日突然二進も三進もいかなくなってしまうところは、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に似ています。「やれやれ」というセリフがぴったりと、はまっていました。突如陥ってしまった窮地に対して、怒りより諦め、抵抗より受容を感じ、「やれやれ」がぴったりときた気がします。

1973年のピンボール」で鼠がひとが腐っていくことについて語っていましたが、腐っていく、ひとという存在は、それに抗うことができるのかな、と読んでいて思いました。鼠が、腐っていく自分を人前に晒したくなかったと語る場面があったからです。腐っていく自分を晒したくないと語った鼠は、その価値観にふさわしい結末を用意していました。

 僕が相棒と経営する小さな会社の仕事の描写などはつまらないほど現実的でありながら、一方でファンタジーのような冒険が存在していて、ミスマッチなのですが、登場人物の価値観とその行動が妙にマッチしていて、思ったほどの違和感を感じなかったのが、不思議でした。

2012年01月23日

「1973年のピンボール」

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村上 春樹 著
講談社 出版

風の歌を聴け」の続編ともいえる作品です。1969年を背景に語り手の僕とその友人(鼠と呼ばれています)の束の間の出会いを描いた「風の歌を聴け」のあと4年経って、僕と鼠がそれぞれ何を考え、どういう出会い、再会、別れを経験したかが描かれています。

 印象に残ったことが、ふたつありました。ひとつは「1Q84」の結末を読んだときにも思ったのですが、すっきりと納得できないという点です。僕と鼠は最後にそれぞれ別れを経験するのですが、どうして別れなければいけないのか何の説明もなく何も推測できず、すっきりしません。その一方で、なるべくしてそうなったという確信が伝わってくるのです。不思議な感覚です。

 もうひとつは、鼠とバーテンが、人はみな腐っていくと語り合っている部分です。
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「ねえジェイ、人間はみんな腐っていく。そうだろ?」
「そうだね。」
「腐り方にはいろんなやり方がある。」鼠は無意識に手の甲を唇にあてる。「でも一人一人の人間にとって、その選択肢の数はとても限られているように思える。せいぜいが……二つか三つだ。」
「そうかもしれない。」
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 その二つか三つをもっと具体的に書いて欲しかったです。人が損なわれていく方向の選択肢とは何なのかを。「いろんなやり方」とあるため、受動的ではなく能動的に選んでるイメージを受けます。死という無に向かって徐々に損なわれていくという感覚なのでしょうか。もしそうだとして、わたしに与えられた「二つか三つ」は何だったのか。そういう風に考えてしまいました。

2011年12月07日

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」

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村上 春樹 著
新潮社 出版

「世界の終り」という世界と「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界が、交互に語られていきます。どちらも簡単には説明できない不思議な世界で、そのふたつの世界が将来どう交わっていくのか、まったく見えないまま物語は進んでいくのですが、最後の最後になって、物語のなかではなく自分のなかに結末を見つけた気分で読み終えました。

「世界の終り」という世界は、それだけで綺麗に完結していて、誰が不満をもつでもなく争いがあるわけでもなく完全であるはずなのに不完全な印象を受ける世界なのですが、その理由をうまく言葉にできませんでした。そして最後に登場人物のひとりが言うのです。良いものもあれば悪いものもある自分たちが生まれた世界は、立派な世界ではなくても、生きるべき世界なのだと。

 物語の主人公は、その考えに同調しないのですが、わたしには響きました。生きるということは、安定した完全のなかでは意味をなさないと、たぶんわたしは思っていたのだと思います。

 もうひとつ。「ハードボイルド・ワンダーランド」で主人公は、最後の時間を過ごすとき、不要になったものを少しずつ処分して身軽になろうとすると同時に、またふたりで会う機会が訪れるかのように人と別れるのです。それはわたしの眼には随分と矛盾する行動として映りました。だれかを待つとなれば、ただひたすら訪れる瞬間を考えて待つわたしは、たぶんだれも待たせたくはないのだと思います。

 うまく説明できませんが、おもしろい物語でした。

2010年09月24日

「1Q84 BOOK 3」

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村上 春樹 著
新潮社 出版

 1984年のもうひとつの世界1Q84年のことを描いた作品なので、10月-12月にあたるこのBOOK 3で本当に終わりなのだろうかと思うような終わり方でした。(4月から始まったので、翌年3月のBOOK 4で終わるのではないかという推測を読む前に聞いて、そのときはなるほどと思っていたのですが。)

 BOOK 1やBOOK 2で惹きこまれて読んだ部分、これは何を意味するのか? 何が起こったのか、という疑問が解かれていくBOOK 3という印象でした。でも、すっきりとこれで終わりと思えるような終わり方でもなく、また次の世界を始められそうな微妙な元の世界への戻り方だった気がします。

 BOOK 3で一番疑問に思ったのは、声を聞くあらたな存在が声を聞くことはあるのだろうか、ということです。声が語っていた具体的な内容を思いつけないだけに、興味があります。

 BOOK 3で一番共感できたのは、青豆が自分のなかのもうひとつの存在に対する抱く確かさです。論理的ではないけれど、確かだと感じるあの感覚です。その確かさをもつことと声を聞く存在を宿したことに関わりはあるのでしょうか。そういう疑問に対する答えは用意されているのでしょうか。

 気になります。BOOK 4はあるのでしょうか?

2010年09月22日

「1Q84 BOOK 2」

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村上 春樹 著
新潮社 出版

 本編の語り手のひとりである青豆が人殺しを請け負ったり、もうひとりの語り手である天吾が美人女子高生に芥川賞を受賞させるために陰で作品に手を入れることを請け負ったりしたBOOK 1に比べ、BOOK 2ではファンタジーの色合いが強まっています。とはいっても、それは村上春樹ワールドとも呼べる、空想の世界とも現実の世界ともいえる曖昧さで、夜空にはふたつの月が浮かび、人間とは違う生き物リトル・ピープルが不思議な通路からやってきて、空気から取り出した白い糸で「空気さなぎ」を紡ぎ、その空気さなぎが卵のように割れたら実在する人物のクローンともいえる生体があらわれるといった世界です。

 怪獣が戦ったり、妖精が夢を叶えてくれたりする世界とは違う、微妙な本の向こうの世界に入り込むと、いままで気にもとめなかった何気ないことが揺らいでくる気がします。それは、文中で問いかけられることばに引っかかるからです。

 わたしが引っかかったのは、「本当」と「わかる」。芥川賞を受賞させるべく、天吾が書き直した作品「空気さなぎ」は、「本当に」起こったことなのかと作品の著者であるふかえりに尋ねる場面があります。それに対し、ふかえりは、「ほんとうというのはどういうこと」と問いで答えます。

 また、天吾の父親は「説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ」と言ったことがあります。わたしは、その考え方にとても共感できたのですが、そのとき感じたのは、この文中の「わかる」とわたしが日常に使っている「わかる」は違うということでした。

 本当のことと本当ではないことの境はどこにあるのか、自分がわかっていると知覚していることは、本当にわかっていることなのか、この本を読んでいると地面がぐらついているような感覚を受けることがしばしばありました。この不思議な感覚をもう少し味わい気もするので、BOOK 3も読みます。