2016年07月14日

「日本人の9割に英語はいらない」

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成毛 眞 著
祥伝社 出版

 少しばかり言葉遣いは乱暴に感じられますし、9割という数字の根拠がやや弱い気もしますが、著者がここで主張していることは、ごくごく一般的なことだと思います。この本に書かれてあるとおり、必要のない英語を学ぶことに貴重な時間を費やすくらいなら、本を読んで教養を身につけ、人格を磨くことに労力を割くべきだと思います。英語は、道具でしかなく、道具が立派でも本人が空虚なら意味がありません。

 ただ、この当たり前過ぎる主張のみで適度な厚さの本にするのは苦しかったとみえ、後半にお勧めの本を並べていたりするのは、本のタイトルから離れ過ぎている気がしました。それに、英語を苦手としながら、もし英語が必要になったらどうしよう……という不安に囚われている方々を説得するだけの力強さは感じられませんでした。
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2015年08月29日

「感じのよい英語 感じのよい日本語」

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水谷 信子 著
くろしお出版 出版

 タイトルを見てもピンときませんが、おもしろい着眼点の本です。日本人が話す英語が存外英語話者から見て失礼と受け取られていることを知ったり、逆に英語話者が話す日本語が感服できても好感がもてなかった自身の経験をもとに、良い印象を与えるかどうかの観点から、日英それぞれの傾向を比較したものです。

 わたしは、普段なにげなく英語話者にならっていることに気づけました。この「なにげなく」というのが曲者で、きちんと理解してコミュニケーションをとっているわけではないので、日本語で話しているときも、そういう傾向になっていることに驚きました。具体的には、

1. あいづちなどを挟まず、相手の言い分が終わるまで待つ
 日本語では、頻繁にあいづちをうったり、相手のことばを引きとって会話を続けたりします。こういう会話の共同作業を著者は「寄り添い」の意識の現れと解釈しています。いっぽう、英語話者は、自分の話しに割り込まれたように感じ、自分の言わんとすることが「尊重」されていないように受けとります。言われてみると、英語と日本語を行ったり来たりするときは、日本語で話していても、明らかに自分のあいづちが減っていることに気づきました。

2. 相手がどうだったかという視点で褒める
 たとえば学生が先生の授業が良かったと思った場合、日本語話者は、目上の仕事をどうこう言うのではなく、自分にとって参考になったなどと自分にひきよせて謝意を述べるが、英語話者は、あなたの何々が良かったと褒めるとありました。そもそもこの褒めるという行為自体、英語話者は日本語話者に比べて頻繁にしている点も違いがあります。わたしもその頻度において、英語話者に傾きつつあるのかもしれないと思いました。

3. 断られることを潔く受けとめる
 日本語話者は、相手に何かお願いするときに、ためらいがちに始め、忙しいなどの相手の事情を理解していることなどを伝えたあとで、おずおずと依頼することが多いかと思いますが、これは英語話者にとっては稚拙に見えるようで、その説明が以下のようになされています。
 Because it shows that the speaker is honest and above board, trying to hide nothing, and is open for a direct refusal. (なぜかというと、話し手は正直で公明正大で、何事も隠そうとせず、きっぱりと拒絶されてもいいという覚悟を持っているということを、示すからです。)
 このことに通じるものがあるのですが、英語話者は、都合が悪いとき、言い方に配慮するもののきちんとノーと伝える姿勢があるので、依頼する側も相手の負担ばかりに眼を向けず、依頼できる傾向がにあるのかもしれません。

 ボリュームとしてはわずか100ページ強ですが、思い当たる部分があって楽しめました。
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2015年08月28日

「翻訳語としての日本の法律用語」

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古田 裕清 著
中央大学出版部 出版

 日本の法律は、大陸法であるドイツ法の影響を強く受けているので、法律用語の多くは、翻訳されたことばであることは想像に難くありません。それでも、ひとつひとつ用語をとりあげて、元のことばと翻訳されたことばを比べて考察するこの本を読むと、納得できることが数多くありました。

 そのなかでも契約に対する考え方の根本を教わった気がします。薄っぺらな日本の契約書と分厚くて読むのにひと苦労するアメリカの契約書の違いを前に、日本に契約は馴染まないというか、アメリカは契約社会だとか、そういうことばを耳にしますが、著者による原因の説明は納得できました。両者の違いは宗教にあるというのです。

 日本語の"契約"にあたるドイツ語の"Vertrag"ということばは、「担う」「耐える」「折り合う」などの意味も含み(ひとことで言うならば「しがらみ」)、対人関係が存在するところによく登場して、日本語の"契約"よりも日常的に使われる単語だそうです。そしてその対人関係にどう向き合うかが、ドイツと日本では大きく違います。ドイツでは、相手が期待することを単刀直入に問うたり、自らの意思表示を明確にしたりすることが求められます。その違いが契約書にもあらわれているのでしょう。こういう負担は耐えるべきだとか、こういう責任は担いたくないとか、そういうことが詰まっているのが契約書ですから。

 著者は、その欧州人の生き方は、キリスト教に裏打ちされた伝統的な人間観から派生していると言います。キリスト教の信仰は、信者の一人一人が神と契約を交わす上に成立しているからです。洗礼を受け信仰告白をするのは神との契約(神とのしがらみに身をゆだねること)であり、教会で祈り、聖書の教えを日常生活で実践するのは神との契約の履行に他ならないと言うのです。

 言われてみると、なぜ気づかなかったのかと思うほどです。この文化の違いを乗り越えて、日本人が欧米人と契約書を交わすのは、骨の折れることだと改めて思いました。
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2012年11月28日

「翻訳教室 : はじめの一歩」

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鴻巣 友季子 著
筑摩書房 出版

 読み始めて最初に思ったのが、大胆な試みだなあということです。タイトルに「はじめの一歩」とあるとはいえ、「嵐が丘」の新訳をだした鴻巣氏が翻訳を教えるために出かけた先は、世田谷区立赤堤小学校6年2組です。

 それを読んだ瞬間、いまどきの小学生はそこまで英語がわかるのかと驚きました。しかし読み進めていくうちに、彼らが動詞の活用や比較級も知らないということがわかり、絵本とはいえ、翻訳するのはさすがに無理があるのではと思いました。それが読み終えるころには、もし、わたしが小学6年生のときに、こんな授業を受けられていたらと羨ましさを感じるほど、彼らは得難い経験をしたのだと思いました。

 彼らは自ら翻訳を体験したあと、YIS(横浜インターナショナルスクール)でグループ・ディスカッションをします。YISの校内では英語が共通語になっているので、英語で考えることに慣れている子たちと一緒に、訳を検討したわけです。そのなかで、英語にある表現でも、それにぴったり対応づけられる日本語の表現がないということを学びます。そのことを小学生で学ぶ機会を得たことは幸運だと思います。

 そして、もっと大切なことは、赤堤小学校の生徒たちが、翻訳という体験を通して、読書とはどういうものかを学ぶ機会を得たことだと思います。(翻訳は、もっとも時間のかかる読書とも、もっとも贅沢な読書とも言われることに通じると思います。)

 鴻巣氏も大胆な試みに奮闘した甲斐があったのではないでしょうか。
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2010年12月13日

「翻訳のココロ」

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鴻巣 友季子 著
ポプラ社 出版

 ひとくちに外資系企業といっても社内文化はそれぞれだと思いますが、名詞や動詞などが過剰にカタカナ英語になってしまうことが概して多いのではないでしょうか。一応外資系企業で働く自分の立場で考えると、やはり普段使っている英語のことばのなかには、それにぴったりとくる日本語が簡単には思い浮かばないものもあり、話し相手も同じ仕事をしているからと、英語のまま使ったりしている気がします。

 わたしの仕事の会話ほどカタカナ英語が乱用されているとは決していいませんが、それでもこの本ではかなり大胆にカタカナ英語が使われている気がします。その一方で、死語とはいわないまでも現代ではほとんど使われていないであろうことばも散在します。それだけ、ことばのストックをお持ちなのでしょう。そのあたりのことは巻末の柴田元幸氏との対談で明らかにされています。

 で、肝心の「翻訳のココロ」と銘うたれた翻訳談義ですが、翻訳というプロセスや翻訳家という職業をあまりご存知ない方々を読者として想定なさっているように思います。逆にいうと、翻訳の何かを知りたいと考えられている読者には漠然とし過ぎていて物足りない内容かもしれません。ただ、翻訳というものをどう捉え、その目標をどこに設定したいと思われているのかという説明は、特にその喩えの部分は、個性的だと思います。

 この本の表紙で使われている棒高跳びも、鴻巣氏が翻訳の喩えに使っているもののひとつです。棒高跳びのどこが翻訳との共通点を有するのかは、直接この本をご覧いただくほうがいいかとは思いますが、巻末の柴田元幸氏との対談を読むかぎり、翻訳を何に喩えるかということひとつをみても、同じ仕事をしているはずの翻訳者がそれぞれ違い、その翻訳者の個性があらわれているようです。それだけこだわりを持っていなければ続けていけない職業かもしれません。

 ちなみに、この著者は「嵐が丘」の新訳をなさる際にその舞台となった土地を訪れています。その訪問の模様はこの本にも収められていますが、ひとつのことばを<見つける>道程の大変さが伝わってきます。Webサイトで公開されていた内容が下手な編集でそのまま本になってしまったため重複が多くて読み辛くなっている点は残念です。
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