2017年09月14日

「日本語でどづぞ」

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柳沢 有紀夫 著
中経出版 出版

 タイトルは、ケアンズの射撃場が出していた広告の間違いだそうです。オーストラリアの観光地でこんな間違いが見つかるのかと驚いて見たところ、この本の出版は2007年と、古い情報のようです。

 いまは、翻訳ソフトの精度もあがり、ソフトの出力をコピペすれば、この手の間違いは避けられ、実際同僚の外国人のなかには、日本でタクシーに乗って行き先を伝えたり、ちょっとした依頼を告げるとき、すべて翻訳ソフトで間に合わせている人もいます。そういった時代の流れを考えると、何とかして日本人観光客の気を惹こうと頑張ったものの、驚くような日本語の間違いを披露する羽目になった光景が目に浮かぶと懐かしい気分になります。

 ただ、そこに日本語を使う必要があるのかと疑問に思うケースもかなりあり、著者も紹介例の『多くは日本人ではなく、基本的には現地の人を対象にした商品』と認めています。では、なぜ日本語を見てわからない人々のためにわざわざ日本語で表記するのかを、著者は『「日本語はカッコいい」と思っているからにほかならない』と説明しています。著者がいた広告業界では、意味がわからなくてもおしゃれに見えるものを「単なるデザインエレメンツ」と呼び、日本では英語を「デザインエレメンツ」としていたという例を挙げています。根拠薄弱な説明ではありますが、否定する根拠もありません。なにしろ日本でも意味不明な英語が氾濫していたのは事実ですから。

 著者のこの考察は、わたしにとって興味深いものではありますが、この本の扱いとしては、こうなった原因を考えるのではなく、あれこれツッコミながら、笑って読むのが正解だと思います。
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2017年07月27日

「ことばの教養」

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外山 滋比古 著
中央公論新社 出版

 ことばに関する考察のエッセイがまとめられた書籍です。興味が湧いた話題が2点ありました。

 ひとつめは、句読点です。以下の文は、句点(。)と読点(、)の使い分けに用いられた例文です。

ひとりぼんやり考えた。このままではしかたがない。何とか動き出す必要がある。それには、しかし先立つものがほしい。それをどうするか。そのとき台所の方でガタンという大きな音がした。われにかえってあたりを見回す。

 上記の「ぼんやり考えた」内容は、どこまでかと著者は問うています。答えは、「それはどうするか。」という文までです。日本語を母語としない読者を想定すれば、考えた内容を「このままではしかたがない。」までとする解釈もあり得るとして、以下のように読点を用いることを検討しています。

ひとりぼんやり考えた。このままではしかたがない、何とか動き出す必要がある、それには、しかし先立つものがほしい、それをどうするか。そのとき台所の方でガタンという大きな音がした。われにかえってあたりを見回す。

 著者は、このような読点の使い方を推奨しているわけではありませんが、おもしろい考察だと思いました。

 ふたつめは、ことばの当たりに関する話題です。コカ・コーラのうたい文句であるドリンク・コカコーラ(コカコーラを飲め)を例にあげて、日本人はつよいことばをはばかると著者は主張しています。このうたい文句が世界中でその国のことばに訳されて使われているのにもかかわらず、日本だけは命令形が受けつけられず、"スカットさわやかコカコーラ"になったというのです。

 著者は、こういったつよいことばをはばかる慣習を重んじ、ことばの当たりをソフトにするよう提言しています。そのとおりだと思ういっぽう、著者が「イエスかノーかをはっきりさせる」ことと「マアマア、どうぞよろしくのアイマイ」を対立させて考え、「イエスかノーかをはっきりさせる」こととソフトな当たりが相容れないような印象を与えていることが残念でした。
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2017年06月22日

「もっと声に出して笑える日本語」

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立川 談四楼 著
光文社 出版

 笑える言い間違いなどが軽妙なツッコミで紹介されている「声に出して読みたい日本語」をもじった本です。

 頑張って思い出したものの間違えてしまった、滑舌よくいくはずが上手くいかなかった、そういったものも面白いのですが、普段パソコンに向かっているばかりなので漢字の誤変換が一番笑えました。頭をひねって考えたのか体験談をまとめたのか不明ですが、もし誰かの体験だとすると、日本語入力ソフトも文節単位で入力されると困るのだろうと、外国生まれであろうソフトウェアに思わず同情してしまいました。

正:共済課の鈴木様
誤:恐妻家の鈴木様

正:テレビの発する情報
誤:テレビのハッスル情報

正:根気よく待った甲斐があった
誤:婚期よく待った甲斐があった

正:君といると超幸せだよ
誤:君といると調子合わせだよ

正:だいたいコツがつかめると思います
誤:大腿骨がつかめると思います

正:誰かビデオとってるやついないか
誤:誰か美で劣ってるやついないか

正:あなたの顔何回も見たい
誤:あなたの顔何か芋みたい

 最後に、すごく納得したものの、頭で理解できなかったのは、以下です。
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 木の上に鳥がいる。さて鳥はどこに?
 あなたはどこにいると思いますか。木の上空、木の天辺、木の枝。この三つが考えられるわけですが、これ誰も間違えないんだそうで、十人が十人、木の枝と答えるそうです。私もそう思いましたが、あなたも?
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 わたしも木の枝しか思い浮かびませんでした。でも、日本語を勉強している外国人に対して説明らしい説明ができるとは思えません。なぜなんでしょう。
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2017年06月09日

「お笑い」日本語革命

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松本 修 著
新潮社 出版

全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路」の著者です。新しいながらも日本語としてすっかり定着したことば、あるいは一般的には使われなくなった時期を経て再び頻繁に使われるようになったことばなどのうち、漫才や落語といった芸能がきっかけで広まったことばを検証していく内容です。革命というと少々大袈裟ですが、ことばの歴史とお笑いが密接に関係してきたことは確かなようです。

 検証されたことばは、以下です。

(1) どんくさい
(2) マジ
(3) みたいな。
(4) キレる
(5) おかん

 著者は、ことばに対する探究心だけでなく、朝日放送勤務という、過去の放送資料の閲覧や芸能人を相手にしたフィールドワークが実施しやすい立場も持ちあわせていて、芸能が日本語に与えてきた影響を掘りさげて検証するのに適任だと思いました。説得力ある構成で鋭い分析が披露されています。

 唸ってしまったのは、地域や世代による認識のずれに対する指摘や、最近の若者ことばと捉えられていることばが年配の知識人たちにも受け入れられているという例証です。

 いちばん驚いたのは、あの丸谷才一が(3)の『みたいな。』を使って対談した内容です。

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丸谷才一 そうそう、吉行・円地文子・小田島雄志で。
和田誠  三人に迎えられるんですよ。
丸谷才一 そう。あれは何だか、いじめられに出ていくみたいだったな(笑)。敵がすごいんだよね。あの三人、八岐大蛇みたいな(笑)。
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 いちばん意外だったのは、(5)の『おかん』 が、つい最近使われるようになった新しいことばではなく、時代とともに変化し、『おとん』というペアがあらわれた興味深いことばだったことです。

 読み応えのある本で、楽しい時間を過ごせました。
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2017年05月26日

「死語にしたくない美しい日本語」

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日本語倶楽部 編
河出書房新社 出版

 美しいかどうかは主観なので、断定しにくいのですが、わたしのものさしでは『美しい日本語』に入らない日本語も数多く収められています。

 読んでいて思ったのは、抽象的な概念ではなく、現に存在するモノと結びついたことばは、そのモノが存在しなくなると死語になってしまう確率がぐんと高くなるのではないかということです。

 以下は、その例です。

【亭主の好きな赤烏帽子】

時代劇がなくならないかぎり、烏帽子を見る機会はいくらか残るかと思いますが、赤烏帽子の異様さ(烏帽子は黒が一般的)は簡単には伝わらないと思います。また、このことばの意味する、赤烏帽子のように異様なものであっても、一家の主人が好きであれば、家族はそれに従わなければならないという考え方も時代に合いませんし、死語になってしまいそうです。

【轡を並べて】

こちらも轡(手綱をつけるために馬の口に装着する金具)という、目にする機会の少ないモノが含まれています。轡をつけた馬たちは、並んで一緒に進むことから、多くの人が同じ目的で一緒にそろって行動するさまをあらわしていますが、轡をつけた馬の様子を想像するのは難しいのではないでしょうか。

【搦手から攻める】

城の正門を大手、裏門を搦手といい、搦手は警備が甘いことから、弱点や物事の裏面という意味になったそうです。城や戦とは無縁の現代には、イメージしにくいと思います。

 死語にしたくない日本語を読んでいたはずなのに、死語にならない条件を考えてしまいました。
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