2011年06月24日

「日本語の作文技術」「実戦・日本語の作文技術」

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本多 勝一 著
朝日新聞社 出版

「日本語の作文技術」が好評を得たため、「実戦・日本語の作文技術」が続きました。それぞれの前半部分には、日本語における作文技術がまとめられています。一方、後半部分は、作文より範囲を広げて日本語に対する考察がなされています。本来であれば、「日本語の作文技術」で述べられている作文技術の理論と「実戦・日本語の作文技術」でその理論を検証している部分が1冊になるべきでしたが、「日本語の作文技術」を購入した方々への配慮から再構成できなかったと、著者が断りを入れています。

 そういう配慮はわからなくもありませんが、わたしは敢えて再構成すべきだったと考えます。理由のひとつは、作文技術を会得したいと考える読者と後半部分を読みたいと考える読者は、あまり重ならないだろうという推測です。もうひとつの理由は、前半部分の技術部分は、日本語の根幹に関わるため時代を経ても変わらないのに比べ、後半部分は、時代とともに古びてしまう点です。もちろん、時代が変わっても著者の主張は変わらないのかもしれませんが、やはり反対意見に対する反論の根拠の示し方を変える必要が出てくると思います。刊行から20〜30年経った現代に読むと、単なる感情論にしか受け取れない部分もあり、惜しいことだと思いました。

 惜しいと思うのは、それだけ前半部分が優れていたためです。これだけ理路整然と簡潔に述べられた文章作成技術を読んだことがなかったので、なんと讃えていいのかわからないほどでした。自分の文章がわかりにくいと感じ、どう直せばいいのか自信がないとき、読んでみて損はないと思います。
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2010年12月24日

「我的日本語」

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リービ 英雄 著
筑摩書房 出版

 著者は、日本語で小説を書く西洋人として、最初にその作品が認められたといわれる方です。万葉集の英訳を手掛けたことから翻訳家としても有名です。

 ご自身の背景や作品を語りながら、日本語で書くということの意味や位置づけが考察されていると同時に日本語とはどういうものか、翻訳するとはどういうことかなどを解こうと試みています。そのほかにも外国語に晒されるということが文学にどう影響を与えるかといった意見も披露されています。

 わたしはそのなかで、日本語というものと日本民族としてのアイデンティティの強烈な結びつきを気づかされました。

 1989年に芥川賞を受賞した李良枝(イヤジ)の「由熙」について著者は次のように記しています。
<<<<<
 民族と言語が切り離された。
 明治以降、人種、民族、文化、そして言葉、この四つがイコール・サインで結ばれていた。ところが、新しい在日文学によって、言葉が落ちてしまった。言葉が、異民族のものになった。異民族の人たちと共有された。
>>>>>

 特定の民族によってひとつの言語が占められていることが特異なことだという認識すら、わたしにはありませんでした。

 この本を読んで、日本語という自分の母語に対する再発見がわたしのなかで起こった気がします。どういう感覚なのかうまく表現できませんが、思考回路が刺激された気がします。でもそれが何かと結びついて実になるには、まだまだ何か足りないようです。
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2010年07月16日

「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

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金水 敏 著
岩波書店 出版

 「ヴァーチャル日本語」というのは、人々が実際に話したりはしないけれど、マンガや小説で頻繁にお目にかかるような日本語を指し、特定のキャラクター構成に貢献しているため「役割語」と位置づけられています。といわれてもよくわからないのですが、具体例はわかりやすいです。

 たとえば、アニメなどで博士は「そうじゃ、わしが博士じゃ」なんて台詞を話していますが、実際にはそんな博士と話したことがある方などいないでしょう。また、「ごめん遊ばせ、よろしくってよ」としゃべるお嬢様もそう簡単には見つかりません。それが「ヴァーチャル」なのです。この本では、博士が話す<博士語>や良家のお嬢様が離す<お嬢様ことば>をとりあげ、どういう変遷を経て、そういうことばとステレオタイプなイメージが結びついていったかが説明されています。

 それはそれで、日本語の歴史を考えるいい機会でもあり、興味深かったのですが、わたしがもっと興味を惹かれたのは、「役割」のほうです。<博士語>や<お嬢様ことば>などの特徴ある役割語の話し手は、ストーリーの中で一定の役割を割り当てられる、と著者は言います。一方、読者が自分を同一化する<ヒーロー>は、<標準語>を話すのが一般的だと言います。(例外の場合、そんなことばを話す背景の説明と人物描写をていねいに重ねていく必要があるといいます。そうしなければ、読者が非標準語話者に自己同一化をすることができないと言うのです。)

 そう考えると、小説などで役割語が使われているということは、読者が共通認識としてもっているステレオタイプなイメージをそのまま借りてキャラクターを作り上げていることになります。それって、手垢にまみれた決まり文句を重ねているようなものではないでしょうか。

 最近、村上春樹の「1Q84」の登場人物はみな中性的なことばを話し、女ことば、男ことばを使っていないところがすごいという話を聞きました。だとするとそれは、読者がもっている共通認識によっかかることなく、すべてを自分のことばによる描写でキャラクターをつくりあげようという挑戦なのでしょうか。

 それが際立っている証拠に、役割語を活用している例が多いから、わたしたちは日常で聞く機会のないことばのイメージを持っているといえます。

 小説のもつ表現力を考えるときには、なかなか興味深いトピックだと思いました。
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2010年05月20日

「日本人の知らない日本語2」

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蛇蔵/海野凪子 著
メディアファクトリー 出版

 前作「日本人の知らない日本語」の大ヒットで出てきた続編だと思います。今回も笑えました。いまさらですが、心から笑える理由は、日本語教師である凪子先生の生徒さんに対する思いやりがあるからだと思いました。

 なんとなく音が似ているからなどという理由で生徒さんが日本語を間違えても笑いを堪えながら優しく対応する姿も、文化圏が違う国々から集まる生徒さんそれぞれの文化を知ろうと努める姿も、日本のアニメや武士・忍者などの文化をそのまま日常に持ち込もうとする生徒たちを諌める姿も、人を人として尊重する思いやりにあふれている気がします。

 それに、とんでもないことを質問されたらどうしようとドキドキするさまを素直に見せている部分も共感できます。(日本語を不自由なく使えているからといって、語源からニュアンスの差異まですべてわかるわけではないことは、前作で実感できました。)

 今回一番笑えたのは、漢字の読みをテーマにしたもの。クララさんという女性が失恋します。泣きはらした顔をほかの寮生に見られたときに備え、クララさんは泣いていた理由を辞書で調べます。「失恋」を見て、恋を失うと書くのかと納得したのですが、いざ友人から理由を問われたとき、クララさんは「しつこい(失恋)」といってしまい、友人からしばらく相手にされなくなってしまいました。音読みと訓読みがそれぞれ複数ある可能性があって、熟語になったときも自由に組み合わせができてしまうなんて、本当に日本語の面倒なところだと思うのですが、「失恋」を「しつこい」と読むとは、この歳になると思いつきもしないので、思いっきり笑えました。(もっと日常的に使わないことばなら、わたしも次々と読みを間違えられるのですが。)

 ここまできたら、ぜひ第三弾も出版して欲しいです。
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2010年03月18日

「日本語の正体―倭の大王は百済語で話す」

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金 容雲 (キム ヨンウン) 著
三五館 出版

 大野 晋氏は、日本語の起源はタミール語にあるという説を唱えていらっしゃいました。こちらは、日本語の起源は百済語にあるという説です。

 朝鮮半島の三国 (新羅・高句麗・百済) 時代には、日本の宮廷では百済語が用いられ、それが発展して現在の日本語になったという説です。一方、朝鮮半島では新羅語が発展し、いまの韓国語になったということです。

 具体的には、白村江(はくすきのえ)の戦いで百済に加勢した日本は、663年に百済が戦いに敗れたのを境に朝鮮半島から逃げ帰り、朝鮮半島との蜜な交流がなくなり、日本語をまったく別の言語へと発展させただけで、それまでは百済語は宮中で普通に使われていたというのです。

 現代の日本語と韓国語の文法はまったく同じでありながら、文字や音に類似性がないのは、中国の漢字を取り入れる際の手法の違いが大きく影響したと説明されています。しかも、百済語と新羅語ではもともと「相当な方言差」があったことも、それぞれの語源を辿るのを難しくしているといいます。

 海を越えるということが命を懸けた大冒険だった時代に、九州あたりと朝鮮半島に交流があったと見るのは自然な考え方だと思います。(たとえば、タミール語起源説では伝播ルートがはっきりしていないのに比べて。)

 でも、本当に同じことばを話していたんだろうなあ、とは思えませんでした。百済語と日本語の単語の類似性の説明を読んでも、わたしの素人目には、似ているように見えませんでした。(たとえば、タミール語と日本語の類似性に比べて。)具体的な単語を前に、これがこう変化して、さらにこう変化を遂げると説明されても、それだけ短い単語がそんなに変化したと仮定するなら、ほかにも起源を同じとすることばが数多く見つかりそうに思えてきて、説得力を感じられませんでした。

 ただ、韓国語と日本語では、文法がまったく同じなのに、過去になんの関係もない言語同士だというのは不自然に思うので、やはり関係はあったのでしょうか。ただ、通訳のような人を立てずとも、相手の言語のことを何ひとつ勉強せずとも通じるレベルに似ていたというには、説得力に欠ける気はします。

 なんとも微妙な印象でしたが、それでもおもしろい説でした。
posted by 作楽 at 00:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 和書(日本語/文章) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする