2010年01月25日

「日本語のしくみ」

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山田 敏弘 著
白水社 出版

 「スペイン語のしくみ」「フランス語のしくみ」「イタリア語のしくみ」など白水社創立90周年記念出版の《言葉のしくみ》シリーズの一冊です。なので、深く掘り下げるというより、広く浅くトピックをカバーする構成になっています。各トピックが見開きページで終わる簡潔さです。

 今回勉強になったと思ったトピックは、助詞。

 ひとつめは、【主観的な「から」、客観的な「ので」「ため」】。理由をあらわす「から」「ので」「ため」ですが、観点が違うなどと思ったことはありませんが、例文を見ると納得です。

 雨が降ったから、少し涼しくなるだろう。
 雨が降ったから、すべりやすくなっているよ。

 いずれも、話し手の主観的なとらえ方が表れています。逆に客観的な例文は次のようなものです。

 京都では、外国人観光客も多いので(ため)、看板に英語が使われている。

 同じ文に「から」を使うと、客観性が薄れる結果になるというわけです。

 次は、【後に観察したことが来る「と」】。

 「と」が自然か不自然かを比べるための例文です。

○昨日、学校帰りに公園に行くと、友だちが遊んでいました。
○昨日、学校帰りに公園に行くと、工事中で閉鎖されていました。
?昨日、学校帰りに公園に行くと、ブランコで遊びました。
?昨日、学校帰りに公園に行くと、ジョギングをしました。

?の付いた文は不自然です。それは、「過去の場合、「と」(や「たら」)の後には、他の人がおこなっている動作やその場の状況を目撃したことを表すことばが来るのがふつう」だからだそうです。では、過去でなかった場合はどうなるのでしょうか?

 梅雨が明けると暑くなる。
 梅雨が明けたら暑くなる。
 梅雨が明ければ暑くなる。

 現在形の場合、「と」が付くと、普遍性が出てきます。毎年そうなっているというニュアンスが強くなります。「たら」は毎年そうなっているかどうかに関係なく暑くなるというニュアンスです。「ば」は「もしかしたら明けないのではないか」という可能性が感じられます(梅雨が明けるか明けないかわからないが、明ければ暑くなるというニュアンスです)。

 こういう助詞の違いを理解しておくと、自分の文章に違和感を感じたとき、論理的に修正できて、便利です。
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2009年12月21日

「言えないコトバ」

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益田 ミリ 著
集英社 出版

 人がことばを選ぶ瞬間に思っていることを知ることができたのは、意外におもしろかったです。ひとつひとつ著書のケースを見ていったとき、自分と同じだと感ずるものは少なかったのですが、それこそがことばのニュアンスに対する個人の違いだとあらためて感じました。たぶん、体験は個人によって大きく違い、それぞれの体験にことばは強く結びついているから、年代や性別が似ていても、必ずしもひとつのことばに対して同じニュアンスを抱くことにはならないのでしょう。

 たとえば、著者は40歳の女性なのですが、「おばさん」ということばに傷ついています。何気ない会話のなかで、若い世代の女性が「40歳くらいのおばさん」と言ったとき、自分もおばさんに含まれると知り、「自分も、今までビミョーな年頃の女性をキズつけてきたんだなと反省しました」と書いています。

 同じ「おばさん」について考えたとき、わたしのなかのイメージが変わってきたことを思い出しました。小中学生くらいのときは、化粧していないのがお姉さんで化粧しているのがおばさんという使い分けでした。それ以降30代になるまでは、精神的に自立した親に頼っていない世代の女性のようなイメージを持っていました。自分が30代になったとき、自分の収入で生活しているし、自分の暮しに関わることは自分で決断しているし、自分で自分のことを「おばさん」だと思うようになりました。だから、親しい友人の子供と話すとき「おばさんはね」と自分のことを言っていました。しかし、実際にその子供がわたしのことを「おばさん」と呼んだとき、友人はかなり慌てて、「おばさんじゃない」と思い切り否定していました。わたしは、友人にも子供にも対して申し訳ない気持ちで、自分で自分のことを「おばさん」と呼んだため、子供が真似をしたのだと説明しました。同い年の友人は、驚いた表情をしてからほっとした表情を見せ、結局ふたりで大笑いしました。それ以来、わたしは「おばさん」ということばを避けて通るようになりました。

 この本を読んだ同じ日、偶然ある翻訳家の話を聞く機会がありました。ことばに対するイメージの話です。たとえば、「悩ましい」ということばには、「悩みを感ずる」という意味もありますが「官能的な」という意味もあります。本来、前者の意味で使われていたことばが、後者の意味を持つようになり、それに伴い後者の意味しか思い浮かべない人々が増えたようです。だから、「悩ましい選択を迫られた」といった使い方をしたとき、その翻訳家の経験上では3分の1から半数からの人が違和感を持つそうです。同様に、「生き様」ということばに違和感をもつ人も同程度の割合でいるそうです。なので、その翻訳家自身は「悩みを感ずる」という意味の「悩ましい」も、「生き様」も正しい日本語だと信じて疑わないけれど、極力それらの表現を使わないことにしているそうです。

 ことばが他者に伝える道具である以上、他者がどういうことばのイメージを持っているのかを知ることは意味のあることではないかと思いました。
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2009年08月31日

「日本人の知らない日本語」

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蛇蔵&海野凪子 著
メディアファクトリー 出版

 コミックのベストセラー本です。日本語教師をしている海野凪子氏がトピックを提供し、蛇蔵氏がコミックに仕立てるという協力によってできたようです。さまだまな外国人学生が日本語を学ぶなかで、日本人である先生も母語の日本語をより深く理解していくような展開です。

 ひとことでいって、笑えます。経済環境など厳しい話題の多いなか、周囲を忘れて笑えました。

 普段、英語を勉強していて、なにか新しいことを学んだと思った途端にまたすぐ知らないことにぶつかる自分にも、この本を読んでいるあいだは寛大になれました。

 母語といっても意外と知らないことはあるものです。また、日本に住んでいると日本の良さも意外と知らないものです。新しい発見もありました。

 コミックなので、あまり量を求められると厳しいのですが、いくつか意外な発見をしつつ、笑いながら読むというのが、似合っている本だと思います。

 わたしが一番笑えたのは、「マルだらけの答案」。これは身につまされました。日本では答案の正解にはマルじるしをつけます。しかし、意外と不正解にマルじるしをつける国が多いのです。マルだらけの答案を見て、ショックを受ける生徒。マルの意味を説明する先生。生徒はなんとなく納得して、マルがいっぱいもらえるように頑張ると言います。そして、次のテストで満点。先生は花マルをあげます。それを見て、気味悪がる生徒。米国で、正解した項目にチェックしるしが入れられた答案を見たときの自分自身のショックを思い出して、爆笑できました。
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2009年08月13日

「日本語ヴィジュアル系 ―あたらしいにほんごのかきかた」

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秋月 高太郎 著
角川グループパブリッシング 出版

 わたしは知らなかったのですが、現代かなづかいには、ふたつのバージョンがあります。以下です。

昭和21(1946)年の「現代かなづかい」
昭和61(1986)年の「現代仮名遣い」

 これの次のバージョンとなる「かなづかい」を考察してみようというのが、この本の狙いです。著者は新たなかなづかいを「ネオかなづかい」と名付けています。

 母国語だけに、何気なく使っている仮名ですが、言われてみると常に変化していますし、一部旧仮名遣との妥協点などがあって統一性に欠けるルールもありますし、新しいかなづかいを考えてみるのは面白い着眼だと思いました。

 ネオかなづかいで変更とすべき点がいくつか挙げられているのですが、個人的にそれは楽しいとかそれは助かると思ったのは、以下の三点。

1. 長音表記ルール

以下のような新ルールが提案されています。

−ア列の長音
ア列の仮名に「あ」を添え、それはなるべく小書きにする。
例:おかぁさん、おばぁさん
−イ列の長音
イ列の仮名に「い」を添え、それはなるべく小書きにする。
例:にぃさん、おじぃさん
−ウ列の長音
ウ列の仮名に「う」を添え、それはなるべく小書きにする。
例:くぅき、ふぅふ
−エ列の長音
エ列の仮名に「い」を添え、それはなるべく小書きにする。
例:えぃが、てぃねぃ、おねぃさん
−オ列の長音
オ列の仮名に「う」を添え、それはなるべく小書きにする。
例:おとぅさん、とぅだい、とぅる、おぅきい

 かなり大胆な変更ですが、これによりオ列の例外などが無くなります。わたしの場合「通り」は「とおり」が正しいのか「とうり」が正しいのか、過去に何度も迷ったので、思い切って統一すれば、学習効率が上がるのではないかと期待しました。

2. 小書きの方言への利用

 関西では、単音節の単語を二拍の長さで発音します。これを小書きを使って表わそうというアイデアです。具体的には「蚊ぁ」や「血ぃ」などになります。今まで、大阪弁を書こうとしたとき、この単音節の間(ま)をどう表わせばいいのか、わかりませんでした。しかし、わたしたちは歯が痛いとき「歯が痛い」とは言いません。「ハーが痛い」と言います。この小書きはいいアイデアだと思うので、これから困ったときは、この小書きを活用したいと思います。

3. 四つがな「じ」「ず」「ぢ」「づ」の使い分けルール

 現在、「じ」「ず」を基本とし、例外として「ぢ」「づ」を使っています。この例外を覚えるのが大変なので、ネオかなづかいでは、「じ」「ず」を基本、つまりメジャー系とし、「ぢ」「づ」は、各々の表現者が特別なニュアンスを伝えたいと思うときに使用、つまりマイナー系とすると提案しています。少しわかりづらいですが、実際の例文を見るとわかりやすくなります。

【メジャー系表記】あの屋台のラーメン屋のちじれ麺を、みかずきを見ながら食べるのがいいんじゃ。
【マイナー系表記】あの屋台のラーメン屋のちぢれ麺を、みかづきを見ながら食べるのがいいんぢゃ。

 現在の表記に慣れていると「みかずき」に抵抗はあるかもしれませんが、「いいんぢゃ」のニュアンスは日本語を母国語とすればなんとなく伝わると思います。

 このようにネオかなづかいを考えていく過程で、現在の仮名遣いの例外ルールなどを再確認でき、学ぶことが多い一冊でした。
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2009年06月18日

「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」

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水村 美苗 著
筑摩書房 出版

 日本文化を、日本人としてのアイデンティティを、日本語を考えるとき、ぜひ読んで欲しいと勧めたくなる本です。ただ、読むことで得られることは多いと思う一方で、この中で提示されている解決方法は解決したことにならないのではないかと疑問を持ちました。ただ、そういうことも含め、考える機会が与えられたという点で優れた本だと高く評価したいと思います。

 この本の構成は次の通りです。

一章−−アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
二章−−パリの話
三章−−地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々
四章−−日本語という<国語>の誕生
五章−−日本近代文学の奇跡
六章−−インターネット時代の英語と<国語>
七章−−英語教育と日本語教育

 全体としてみれば、一章から三章は、自分たちの言葉<国語>を持つことの意味や特異性を考える導入といえるでしょう。四章および五章は、漢文が日本に伝わってきた頃や近代文学が栄えた頃などの過去に遡り、日本語やいかに偶然や環境に恵まれ、国語となっていったかが専門家以外でも理解できる範囲で書かれています。ここまでの範囲は、そう言われてみればその通りだ、と納得できることばかりで、意識下に別々の事柄としてあったことが、自分のなかで繋がっていくような感覚がありました。著者の言葉により、他者(外国および外国語)という比較対象ができ、身近で当たり前と受け止めている日本や日本語をより深く理解できました。

 そして、六章は現代の状況です。英語が普遍語として広がってきた様が説明されています。これは、自分の目でも見てきたことなので、とても共感できます。そして、日本語が亡びつつあるということは、明治、大正、昭和初期の文学作品を読むときだけでなく、日々の暮らしのなかでも感じられることなので、著者の言い分はその通りだと同意できました。

 問題は七章です。著者は、国民全体はもっともっと国語(日本語)を受け継ぐべく、国語教育を充実すべきだと説いています。それは、誰もかれもが日本語で(文学作品などを)書けるようになるという意味ではなく、<読まれるべき言葉>を読めるようになる、受け継がれるべき言葉を読み続けられるようになるために必要だと主張しています。そのためには、今の英語偏重の教育を改めるべきだというのです。英語は一部の人たちに精鋭教育を施せばいいという論調です。たしかに、英会話学校が溢れ、そのテレビ・コマーシャルが絶え間なく流れる現代の日本の環境は、異様かもしれません。でも、それには理由があるのではないでしょうか。たぶん、著者のような研究や文学活動が生活の中心になっている方々にはわからない理由が。

 現代の日本は経済大国といっていい国だと思います。その経済を支え、便利な生活を支えるには、国も個人も価値を創造し、対価を得る必要があります。わたしのような労働者は「働いて収入を得る」必要があります。現代において、何か価値を、たとえば製品をつくるにしても、他国の技術をもとにすることがよくあります。また製品を売るにしても、国外にも売らなければ開発などの費用の採算が合わないこともよくあります。そんなとき、普遍語である英語ができなければ、情報難民です。わたしのような末端の末端にいる技術者であっても、情報難民であれば、職を失う不安は膨れ上がるでしょう。将来ある子どもには、そんな不安を背負わせたくないから、誰もかれも見境なく英語に走ってしまう。わたしにはそう思えるのです。なにか手作業をして収入を得られる時代ではないのです。物価がずっと安い国々に建てた工場に仕事は移っていきます。その不安のなかで、普遍語の魅力は大きいと思います。

 実際、英語で情報を吸収したり発信したりできる人たちが多く散在しているから、成り立っている集団というのは意外に多いのではないかと思うのです。また、そういう人たちが散在しているから、日本語に訳されて存在できる情報が多いのではないかとも思うのです。本当に一部の人たちだけが英語に長けている状態で、今の経済活動は成り立つのでしょうか。

 自分が見える範囲で考えると、著者の解決方法に賛成はできかねますが、代替案も思い浮かびません。ただ、教育だけに目を向けるのではなく、社会の仕組み全体に目を向けないと解決できない気がします。つまり、みんなが普遍語に感じる無条件な安心感のようなものを必要としない社会構造にならなければ、国語に目を向ける人は減っていく気がします。
posted by 作楽 at 00:42| Comment(0) | TrackBack(1) | 和書(日本語/文章) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする