2013年03月11日

「日本人の知らない日本語3 祝! 卒業編」

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蛇蔵/海野凪子 著
メディアファクトリー 出版

「日本人の知らない日本語2」を読んだときに"ここまできたら、ぜひ第三弾も出版して欲しいです"と、書きましたが、本当に第三弾が出版されました。

 第三弾は、前作2点と少し違った印象を受けました。おそらく、絵を担当されている蛇蔵さんとそのお友達が登場していることが理由のひとつです。たとえば、桂かい枝氏は、そのお友達のひとりなのですが、英語で落語を海外巡業されています。落語は、暗黙のお約束で成り立っている芸だということに、こうして取り上げられるまで気がつかなかった自分に驚くと同時に笑えました。

 落語は、ひとり芝居というか、登場人物すべてを噺家さんがひとりで演じます。わたしたちにとっては、当たり前のことです。でも外国の方々には当たり前ではありません。噺家さんが「おおっ よく来た よく来た」と言うと、観客がみな一斉に自分たちの後ろを振り返り、来た人を見ようとします。それを読んで笑ったあとは、当然の反応だよなと納得してしまいます。

 そのほか、タイトルどおり、それは日本人でも普通知らないでしょうということに"役割語"があがっていました。「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」の金水氏が登場して、簡潔に説明しています。いままでに比べ、日本人でも知らない人のほうが圧倒的に多い話題だけに、レベルアップした内容だと思います。

 そしてこのシリーズは次、海外に飛び出してさらにレベルアップするようです。楽しみです。
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2013年02月13日

「漢字と日本人」

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高島 俊男 著
文藝春秋 出版

 ノンフィクションを読んで感動することは滅多にないのですが、これは感動ものでした。すごくわかりやすく、読み終えたあとは、日本の漢字に「これまで大変だったね」と声をかけてあげたくなるほどでした。

日本語と漢字文明」などの本を読んだことがあって、日本の漢字の歴史に対して基礎的な知識をもっていると自分では思っていました。でもそれは、歴史の教科書を通り一遍に読んだようなもので、生々しさに欠ける表面的な知識でした。

 この本を読むと、日本人がどういう気持ちをもって漢字を取り入れ、どういう気持ちをもって漢字を廃止しようと考えたかが相当リアルに伝わってきます。そうすると、常用漢字やら当用漢字やら、訳のわからない分類や文字の選択がなされたことすらも、やむを得ない判断だったように思えてきたのは、自分でも不思議でした。手当たりしだいに英語を日本語に取りこんできた時代、特にIT分野に深く関わってきたせいかもしれません。世代や分野が異なる方々が同じ感想を抱くかについては、甚だ疑問ですが、少なくともわたしにとっては、日本語の変遷をいままでよりずっと肯定できる気持ちになりました。

 巻末のあとがきで、著者はこう書かれています。

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 よんでいただけばわかるが、わたしの考えは、まず第一に、漢字と日本語とはあまりにも性質がちがうためにどうしてもしっくりしないのであるが、しかしこれでやってきたのであるからこれでやってゆくよりほかない、ということ、第二に、われわれのよって立つところは過去の日本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと、とにかく過去の日本との通路を絶つようなことをしてはいけないのだということ、この二つである。
 あとは、およみくださったみなさまの御判断をまつのみであります。
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 わたしたちは、過去を認識したうえで、これからどうするべきなのかを考えていくべきなのでしょう。

 そして著者は触れられていませんでしたが、これからの時代、もはやコンピューターのない環境に戻ることはできません。コンピューターで漢字をどう扱っていくのかも、併せて考える必要があるのです。漢字を使う立場としての考察を生んでくれた本だと思います。
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2012年12月18日

「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」

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多和田 葉子 著
岩波書店 出版

雪の練習生」を読んだとき、日本語を母語とするのに、ドイツ語でも積極的に作品を発表している作家だと知り、どうしてそういう道を選ばれたのか興味を抱き、エッセイを手にとってみました。

 著者の場合、ドイツ語で小説を書きたいという、内から湧く衝動にしたがって書くようになったようです。

 衝動なので、そこに説明すべき理屈があるわけでもなく、その点では当初の期待は満たされなかったのですが、著者がここで紹介する考察は、わたしにとって新鮮でした。

 母語でない英語を学ぶのに少なからず時間を割いてきた身としては、言われてみればそうかもしれないと納得できる部分がかなりありました。当然でありながら、いままで考えてもみなかったことのひとつは、言語と言語が影響を与えあっているレベルが多様だということです。言語は、それ単体でかたちあるものではなく、人という存在を必要とするものです。たとえば、IT分野で秀でているアメリカの影響を受け、ドイツ語でも英語が多用されています。それにより、ドイツに住みドイツ語しか話さない人でも英語の影響を受け、それは大衆といってもいい集団が影響を受けたことになります。そしてもっと狭い範囲では、アメリカに住むドイツ人もそれとは違ったレベルで英語の影響を受けます。

 しかし、アメリカに住むドイツ人作家がすべて英語で小説や詩を書いたりするわけではありません。影響は受けていても、創作するレベルでの選択は、個々違う価値観により選択されています。そういう面を作家ならではの観察で紹介している点が特に興味深く読めました。
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2012年06月04日

「文は一行目から書かなくていい」

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藤原 智美 著
プレジデント社 出版

 副題は「検索、コピペ時代の文章術」です。文章を書くうえでの技法を学べるのかと思って読みだしたのですが、話題はそれだけに留まっていませんでした。それを、幅広い分野が網羅されていたと評価することもできますが、正直なところ、わたしはマイナスイメージを抱いてしまいました。

 全部で200ページ足らずというボリュームに対し、範囲を広げ過ぎてしまったのではないかと、感じたのです。たとえば、電子書籍の行方などは、出版を生業とする人たちにとっては書き手として意識しなければならないかもしれませんが、少なくともこの本の読者の大多数は、該当しないと思われます。それなのに電子書籍と従来の紙媒体とを比較したり、出版業界の今後を語る必要がどの程度あったのだろうかと疑問に思いました。

 著者は、狭い範囲でありながら深く掘り進む一本の井戸のように従来の紙の本を捉え、遠くまで広がるものの深みのない遠浅の海のように電子書籍を捉えています。しかしわたしは、200ページもない文章術の本で電子書籍の今後を扱うのは、一本の深い井戸を掘る行為にはそぐわない気がしました。

 ただ、書く側としては読み手の移り変わりを無視するわけにもいきません。それを考えると移りゆく周囲の変化に対して書き手が関心がないのも問題なので、その点をどう扱えば、わたしにとってより読みやすい有益な本になったかと問われると難しいというのが本音です。
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2012年02月07日

「『方言コスプレ』の時代」

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田中 ゆかり 著
岩波書店 出版

『方言コスプレ』って何?と、最初は疑問に思いました。でも、読み始めてすぐに、思いあたるものがありました。「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」です。違うのは、方言に限定されている点です。そして、この方言コスプレの台頭により、「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」で紹介されていた<ヒーロー>は<標準語>を話すという定石が崩れていくのかもしれないと思いました。

『方言コスプレ』のコスプレとは、方言の使用がイメージ重視で着脱や混在も可能であることからついたネーミングのようです。たとえば、大阪弁なら「おもしろい」や「怖い」、東北弁なら「素朴」、九州弁なら「男らしい」というそれぞれのイメージにあった場面に限定して使う(着脱可能)というのです。そのため、全然違う地方の方言がひとつの文に混在することもあれば(混在可能)、文末だけ方言を取り入れるといった使い方もあります。

 本書では、方言から抱くイメージが全国的にみてもかなり共通していることが、調査結果を根拠に示されています。(それを『方言ステレオタイプ』と呼んでいます。)そして、『方言コスプレ』の現象は首都圏を中心に増えていて、それ以外の地域にも程度の差はあれ広がっていることも示されています。首都圏で生活しているせいか、わたしもそういう現象に遭遇したことがあります。わたし自身も、倹約しなくちゃという雰囲気をだして金銭的に細かい話をするときなどは、意図的に関西弁に戻したりします。

 しかも、方言の利用場面はイメージだけで広がるものでもないようです。著者は、方言を『本方言』『ジモ方言』『ヴァーチャル方言』と三種類に分けています。『本方言』は、幼少期から日常的に使っている/いた方言です。『ヴァーチャル方言』は、方言イメージをもとに前出のようなケースで自由に使う方言です。『ジモ方言』というのは、使い慣れていない自分の地元の言葉、たとえば自分たちの世代は使わないけれど両親や祖父母世代は使うような方言を指しています。これはおもに親しさをあらわす目的で使うようです。

 方言を駆使して表現やコミュニケーションの幅を広げるという現象はたしかに一般的になりつつあるようです。でも、それに対する受容度合は地域や個人によっても違うでしょうし、自分に関わりのない地方の方言を積極的に自分が使っていくことは少ないだろうとは思いました。

posted by 作楽 at 07:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(日本語/文章) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする