2009年04月24日

「本を読む本」

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Mortimer J. Adler/Charles Van Doren 著
外山 滋比古/槇 未知子 訳
講談社 出版

 著者は、本を読む段階を「初級読書」「点検読書」「分析読書」という感じでわけています。たとえば、分析読書は以下のように、さらに段階わけされます。とても、論理的で体系的です。
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T 分析読書の第一段階
−−何についての本であるか見分ける−−
(1) 種類と主題によって本を分類する。
(2) その本全体が何に関するものかを、できるだけ簡潔に述べる。
(3) 主要な部分を順序よく関連づけてあげ、その概要を述べる。
(4) 著者が解決しようとしている問題が何であるかを明らかにする。

U 分析読書の第二段階
−−内容を解釈する−−
(5) キー・ワードを見つけ、著者と折り合いをつける。
(6) 重要な文を見つけ著者の主要な命題を把握する。
(7) 一連の文の中に著者の論証を見つける。または、いくつかの文を取り出して、論証を組み立てる。
(8) 著者が解決した問題はどれで、解決していない問題はどれか、見きわめる。未解決の問題については、解決に失敗したことを、著者が自覚しているかどうか見定める。

V 分析読書の第三段階
−−知識は伝達されたか−−
(A) 知的エチケットの一般的心得
(9) 「概略」と「解釈」を終えないうちは、批評にとりかからないこと。(「わかった」と言えるまでは、賛成、反対、判断保留の態度の表明をさし控えること)
(10) けんか腰の反論はよくない
(11) 批評的な判断を下すには、十分は根拠をあげて、知識と単なる個人的な意見を、はっきり区別すること。
(B) 批判に関してとくに注意すべき事項
(12) 著者が知識不足である点を、明らかにすること。
(13) 著者の知識に誤りがある点を、明らかにすること。
(14) 著者が論理性に欠ける点を、明らかにすること。
(15) 著者の分析や説明が不完全である点を、明らかにすること。
<注意>(12)(13)(14)は、反論の心得である。この三つが立証できない限り、著者の主張に、ある程度、賛成しなくてはならない。そのうえで、(15)の批判に照らして、全体について判断を保留する場合もある。
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 読み進めていくうちに、いままでの自分の本読みに対して不安になってきました。いい加減に気の向くまま本を読んできたわたしの姿勢は、著者に失礼だったかもしれないと思ったり、無駄に本を読んできたのかもしれないと思ったりしました。

 でも、わたしが実践してきたような、身をゆだねるような本の読み方が肯定されている部分を見つけました。
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 積極的に読書することはどんな場合にも大切だが、「教養書」と文学書とではその姿勢に違いが出てくる。「教養書」を読むときは、目をいつもタカのように光らせて、すぐにでも襲撃できる態勢になくてはならない、しかし、詩や小説を読むのにこれでは困る。その場合には、いわざ積極的な受け身とでも言うべき姿勢が必要である。物語を読むときは、物語が心にはたらきかけるにまかせ、またそれに応じて心が動かされるままにしておかなくてはいけない。つまり、無防備で作品に対するのである。
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 わたしの本の読み方は、小説などに向いているのでしょう。何かを研究する、何かを実践する指南を求める、という目的には不向きのようです。逆に、何かを研究したくなったら、最初にこの本を「点検」したいと思います。さらに、ある主題に沿って本を読もうとする場合、この本に書かれている「シントピカル読書」が役に立ちそうです。「シントピカル読書」とは同一主題について二冊以上の本を読むことです。多数の文献にあたり、その論点を比較し、戦わせることです。著者はこれも、段階わけしています。
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シントピカル読書の五つの段階
第一段階 関連箇所を見つけること。
第二段階 著者に折り合いをつけさせる。
第三段階 質問を明確にすること。
第四段階 論点を定めること。
第五段階 主題についての論考を分析すること。
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 全体を通して興味深いと思ったのはやはり、本を一方通行の媒体を扱っていないことです。「著者と折り合いをつける」という表現自体、双方向性を感じます。本がいかに価値のあるものか、と思うと同時に、これだけの価値に見合わない本も多く、上記の分析読書の前の「初級読書」や「点検読書」の段階で「分析読書」へ進まないという判断をすることは、大切なのでしょう。

 そうはいっても、やはり、何か研究したいことが出てくるまでは、自分が興味を持てるものを探すために、身をゆだねて本を読んでしまいそうです。


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2009年02月25日

「世界は村上春樹をどう読むか」

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国際交流基金 企画
柴田 元幸/藤井 省三/沼野 充義/四方田 犬彦 編
文藝春秋 出版

 サブタイトルが、"A Wild Haruki Chase"。これは、"Wild-goose chase"の「もじり」だそうです。追いかけても追いかけても、捕まえられない春樹ってことなのでしょうか。

 帯には、"17カ国・23人の翻訳者、出版社、作家が一堂に会し、熱く語り合った画期的なシンポジウムの全記録"とあります。

 ここでいうシンポジウム「国際シンポジウム&ワークショップ 春樹をめぐる冒険−−世界は村上文学をどう読むか」が開催されたのは、2006年3月25日・26日(東京)と29日(札幌・神戸)。ずいぶんと盛況だったようで、あらためて村上春樹人気を思い知ったという感じです。(しかも、シンポジウムの内容が本というかたちでも記録されているわけですから、尋常ではありません。)

 各国から翻訳者が集まり、各国での春樹文学の受け入れられ方の違いや、各国の装丁の違いを比べています。比較してはじめて見えてくることもあり、楽しめます。しかし、一番印象に残っているのは、やはり翻訳の難しさです。

 文化の違いを意識しながら、別の言語に訳すわけですから、難しい点はいろいろあると思うのですが、今回は村上春樹の作品独特の難しさが伝わってきました。

 ひとつめは、村上作品独特のおかしみを伝える難しさ。たとえば、日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字など表記方法が多彩です。そういう仕組みを利用して、おかしく仕上げている作品(例に挙げられているのは、「夜のくもざる」)を訳すのは大変です。意味があるように聞こえて、実は意味のないことを並べ立てているセリフなど、どう訳するのか、迷う気持ちが翻訳者から伝わってきます。また、普通ではありえないことを、淡々と話している場面なども、意外性などをそのまま伝えるのは困難でしょう。例として挙げられている短編「スパナ」は、「真由美が最初に鎖骨を砕いた若い男は、スポイラーのついた白いニッサン・スカイラインに乗っていた」と始まります。鎖骨を砕くなどという非日常をいきなりもってくる「おかしみ」を損なわないようにするのは至難の業に思えてきます。

 ふたつめは、固有名詞が多い点。言われてみると、商品名や曲名など、その時代を象徴するようなかたちで、頻出するような気がします。商品名などは特に、国によっては発売されていなかったり、別の名前になっていたり、簡単に転記できない難しさがあります。

 わたしは、あまり村上作品を読んでいませんが、この本で翻訳者の思い入れや人気の高さが伺えると、ミーハー気分で少し読んでみたくなりました。
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2008年11月13日

「海外短編のテクニック」

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阿刀田 高 著
集英社 出版

 阿刀田氏が直木賞候補にもなった小説家だということは知っているのですが、やはり、わたしの中では「旧約聖書を知っていますか」や「新約聖書を知っていますか」のイメージが強く、扱われている作品の分野が海外短編とかわっても、阿刀田氏の文学エッセイなら楽めるのでは、という期待から手にした一冊です。

 帯にはこうあります。「レトリックとトリック、視点、書き出し、ストーリー性・・・・・・。あなたも書いてみますか?」

 でも、この本を読んで、わたしもこういうテクニックを使ってみて書いてみよう、とは思わないのではないでしょうか。有名どころの短編小説のあらすじや作家自身の略歴の割合が多すぎて、文学的な技巧については、あまり触れられていないです。

 でも、まったくないわけではありません。「そういわれてみれば、そうかも」と思ったのは、次です。
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 大空の視点

 そう言えば、私は大空の視点というものを提言したことがあった。大空には太陽や月や星がある。太陽が出ているときは月や星は消えてしまう。月が輝けば星は消える。ちょうどこのように、太陽に匹敵する第一の登場人物が登場しているときは、すべてこの人の視点で綴られる。彼がいなくなると、第二の登場人物、月の視点になる。月がいなくなれば星の視点となる。段階的に、一定の法則をもって視点が変わる、というわけだ。こんな小説もありそうだ。
 このように考えてくると、小説における視点の問題はけっして単純明快なものではなく、まだまだ考え尽されていないようだ。
 目下のところ、私は、
「視点の問題って政治家の汚職みたいなものじゃないの」
とジョークを吐いている。
 つまり、だれしもが違反をやっているのだ。ただ見つかったら、いけない。政治家はそうである。ちがいますか? 同様に、熟練した作家も違反をやっている。が、やっても読者に見つからない。技が巧みなので意識されないのだ。
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 比喩が阿刀田氏らしいです。視点は、読むときには意外と意識していないものです。書くときには考えざるを得ませんが。

 作家や作品の個性も、やはり阿刀田氏らしく形容されています。ただ、すでにその作家の作品を複数読まれている読者にとっては、意見が分かれるところでしょう。

 わたしのように、たいして有名作家について知らない人間のほうが、読みたい気持ちを持てたりして、この本の読者に向いているような気がします。特に「短編」というところが、実際に読むとなっても、気軽に取り組めそうですから。
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2007年09月10日

「本づくりのかたち」

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芳賀 八恵 編
8plus 出版

 発信したい何か、伝えたい何か、その何かをかたちにするのに、本というかたちを選んだ人たちとその本の紹介です。

 本と言われると、まず最初に思い浮かぶのは、入り口には新刊本が並べられていて、大きな駅の近くには必ずあるようなチェーン展開されているような本屋さんに置かれている商業本です。

 しかし、そのような本は本の形態の一部に過ぎません。

 自主流通、つまり取次と呼ばれる本の問屋さんを通らない形態もあるのです。そういう自主流通本は、商業出版では実現できなかったようなかたちにすることができます。もちろん、表現の自由は広がりますが、発行部数やコスト面でとても厳しいと思われます。でも、私のような本好きにとっては、よりメッセージを感じることも多く、魅力だったりするのです。

 この本を出版しているのも、個人出版社(8plus)です。テレビドラマに出てくるような、編集長がいて、カメラマンがいて、校正者がいて、大きなビルで運営されているような出版社のイメージからは大きくかけ離れています。

 そんな8plusの芳賀八恵氏が選んだ出版社は次のとおりです。

 牛若丸
 空中線書局
 トリトンカフェ
 SKKY\iTohen
 young tree press
 mini book Hana
 四月と十月
 小さなほん
 WINDCHIME BOOKS
 トムズボックス
 未来本
 Web Press 葉っぱの坑夫

 トムズボックスは豆本といわれるような小さな本もいくつか出版されていて、知っていました。この本を通して初めて知り、どうしても手にしたくなったのは、トリトンカフェの『peep paper』。vol. 1〜3まで出版されて、それ以降は休息中のようです。
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「ふつう、ワンテーマで強弱があるはずなのに、全部に力が入りすぎていると編集者の方に指摘されました。本としては面白いけど、ビジネスとして考えるとマニアックすぎるようです
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 出版者のひとりである大川潤氏のコメントです。そんな風に言われると、手にしたくなってしまいます。

 これに限らず、どの本もそれぞれの個性を放っていて、それぞれを選んだ出版者の本好きの熱が伝わってきそうです。
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2007年06月08日

「編集者という病い」

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見城 徹 著
太田出版 出版

 この本に対するひとくち感想。見せ方として失敗。裏側まで見せ、好奇心や刺激欲しさを満足させてくれる内容で成功。

 なんとなく、この本を眺めていると、スクリーンで見る刑事コロンボを思い浮かべてしまいました。初対面で、あの風貌を前に、コロンボが優秀な刑事だなんて、思えないです、普通。それに、あそこまでの鋭い観察力やしぶとい粘り強さがあるとも、思えないです、普通。

 この本の構成としては、寄せ集めを寄せ集めのまま、たいして工夫もせずに羅列したようにしか見えず、がっかり。パラパラとめくっても、何がどうなっているのか、さっぱりわかりません。今までに出版された本の解説や紹介文と思われる文があったり、書き下ろしたと思われる部分があったり。ミリオンセラーを出し続けている後発出版社、幻冬舎の社長の本という肩書きはあっても、中身はないのでは、がっかりするような感じです。

 刑事という肩書きがあっても、コロンボ刑事に事件を解決できるのかしら、とがっかりするのを似たような感じです。

 でも、本の中身をひとつひとつを読んでいくと、「そのとおりだ」と共感できたり、そこまでするから考えられない結果を出せるのかと刺激を受けたり、そんなことをせずにいられないから病いと位置づけるのかと納得したりする部分が、点在します。

 何よりも、息している時間をすべて編集者の時間として使っているとしか思えないような異常さが目をひきます。イマドキの、「残業がなくてぇ、休みが多くてぇ、給料のいい仕事ってないかなぁ」みたいな感覚からすると、命を削っているとしか思えないような働きぶり。

 この編集者、見城氏は、死ぬ瞬間のことだけを思って、毎日を駆けているようです。

 対談記事の中で、仕事をひとつ成し遂げただけでは癒されないのかという質問に対し、見城氏はこう答えています。
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 癒されない。人間は死に向かって行進してて、それはすべての人のが平等であるわけでしょう。死に向かっていく寂しさというのは、もう耐えようがない。自分はいずれ死ぬ。<中略>その恐れや孤独、寂しさを埋めるには、仕事か恋愛しかない。
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 死ぬ瞬間を考えて今を生きているという点では、池田 理代子氏の「あきらめない人生」に通ずるものがあるようにも思います。死の瞬間、人生が成功だったと思えて微笑むことができるかどうかを見城氏はゴールに据えているのです。

 加えて、客観的に見て受けるべき責任を引き受ける度量は拍手を送りたい気分です。「僕にとっては売れる本はいい本なんです」と断言する見城氏は、今の出版業界をこう批判します。
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本が売れないことを、自分の責任において引き受けない。
僕は、そんな出版人の「常識」の方こそ、実は「無謀」と思っている。
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 本が売れないのは、経済環境のせい、無料で本を貸し出す図書館のせい、安値で売るブックオフのせい。そう言っている出版人に檄を飛ばし、いい本を作れば売れる。売れないのは、いい本を出さないからだと、出版業界側の責任を自分で背負い、売ることによってそれを実証している姿を「あっぱれ」と言いたいです。

 それにしても、この本は、重複を省いたら、三分の一の量になってしまうものなのに、これだけ売れてしまうということは、手にした私が損した気分を多少味わっても、いい本なんでしょう、見城氏の持論によると。

 ちょっと納得できない部分もありますが、こういう強烈な個性の人の頭の中を少し覗けるのは、価値があり、おもしろいことだとは充分認めます。
posted by 作楽 at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする