2014年07月15日

「生半可な學者」

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柴田 元幸 著
白水社 出版

 何かしら英語の表現に絡めて書かれてあるエッセイです。何かしら、というのは、繋がりにちょっと無理があるかも……と思う場面があるという意味です。

 展開の滑らかさに少しばかり難があるとはいえ、知らない英語表現や薀蓄、著者の少し意外な着眼点などを楽しく読めました。

 なかでも、これでスッキリできたと思ったのは、「変温動物の戸惑い」というタイトルでとりあげられていた We です。(変温動物と人称代名詞の We の繋がりが見えないと思いますが、そこはともかく) we の用法には、editorial we (新聞記者などが社を代表する立場で記事を書くとき、I ではなく we を使用) や royal we (日本語の朕に当たる言葉として we を使用) が説明されています。それ以外のケースで、ひとりなのに、we を使うのはやはり不自然だと著者は説明しています。その不自然な例として挙げられているのが、レイモンド・カーヴァーの「でぶ」です。

 実は、この「でぶ」に登場するのは、丸々と太っていて山のように食べる男性とその男性に給仕するウェイトレスなのですが、その男性が"私ども"は、何々をいただきたいと注文するのです。連れがいる描写は、まったくないのに。思わず何かを見落としたかと前に戻って読みなおしても、やはり男性ひとりで、変だと思っていました。著者のこの短篇に対する評価を読んだことによって理解が深まりました。

 カーヴァーの短篇集を読んでまもなくこのエッセイ集を読んだのは幸運でした。
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2014年07月13日

「死んでいるかしら」

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柴田 元幸 著
日本経済新聞出版社 出版

 東京大学で教鞭を執り、数多の翻訳を出版し、自ら雑誌の編集をこなし、講演に立っているとあれば、パワー漲る姿を想像してしまうのですが、このエッセイ集からはそんなことは微塵も感じられません。

 肩の力を抜いて読めるエッセイです。ただ、アメリカ文学研究の大家であるだけに、あらゆるところに文学の要素が散りばめられていて、これを読む進めるほどに読んでみたい本も増えて、いつも時間に追われる身としては、嬉しいような嬉しくないような気分になりました。

 たとえば"スティーヴン・ミルハウザーの「アウグスト・エッシェンブルク」は、僕がこれまでに翻訳したすべての小説のなかでも最高の部類に属する名作であり、もし訳したなかでどれかひとつを「自分が書いたこと」にできるとしたら、たぶんこの中篇を選ぶと思う"と書かれてあります。そもそも訳した作品を自分が書いたことにできるなんてことは決して起こらないので、こういう想像は読んでいて楽しくなります。同時に、その作品を読まずにいられなくなってしまうのです。

 とても和めるイラストもあって、息抜きになるエッセイ集でした。
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2013年01月16日

「神も仏もありませぬ」

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佐野 洋子 著
筑摩書房 出版

 2004年(第3回)小林秀雄賞受賞作品です。

死ぬ気まんまん」を読んで、この作品を知りました。認知症になった母親の姿を見て、またご自身も60代になって、老いや死を意識せざるを得ない状況で書かれたものです。

 老いや死とどう向きあうか、そこに先人の知恵を活用する余地は少ないという点が、ひしひしと感じられました。医療の進歩を含む世の変化によって、祖父母世代の経験が役立たなくなっているのです。著者はこう書いています。
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人は皆、知っているのだ。長老を必要とする共同体が壊れちまっていることを。死ぬまで個人で戦いつづけねばならぬと。老いの体と心は邪魔なのよ。そして長生きしすぎて、一挙に敗残物となって、税金を喰いつぶすのだ。
 私は少なくとも、現役下りて、十五年くらいは老人を楽しみたいと思うのだが、どんな老人になったらいいのかわからないのである。
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 長老の知恵を必要としなくなった現代で、著者のいうように「老人を楽む」のは意外に苛酷なのかもしれません。また喰いつぶす税金もなくなって、現役を下りられない可能性もあるわけです。そして何より、老いた『体』に『心』がついていかないという現実があります。著者は、自分が六十五歳であることに覚えるとまどいを率直に語っています。かといって積極的に死にたいわけでもないのです。
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 そう云えば、九十七歳の友達の母親が、「洋子さん、私もう充分生きたわ、いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい」と云ったっけ。
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 著者は、この友達の母親の言葉に共感するものがあったのでしょう。明日は我が身。そう思いました。
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2012年12月25日

「死ぬ気まんまん」

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佐野 洋子 著
光文社 出版

「100万回生きたねこ」の絵本作家が書いたエッセイです。どきっとするタイトルです。癌に罹って余命平均二年と云われ死に備えた彼女を見て、息子さんが「おフクロ、なんかこの頃、死ぬ気まんまんなんですよね」と云われたところからきたタイトルだそうです。

 金と命と惜しまないことを信条としてきた著者の価値観は、共感できる部分があります。
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 私は死ぬまで、どういうつもりで生きていけばいいのかわからない。
 ただ、壮絶に闘うということだけは嫌だ。
 死ぬまで舞台に立ちたいと言った新劇の役者が日々やせおとろえながら立っていた舞台は、嫌だった。お客に失礼ではないか。
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 わたしも同じ意見です。壮絶に闘うかどうかの選択は、ひとりの人間として置かれた立場によって違うと思います。おそらく子育て真っ最中の女性と、著者のように子育てを終えた独り身の女性では違ってくるでしょう。でも、仕事という公の部分で、壮絶に闘う姿を見せられても困ります。壮絶に闘う覚悟が自分にないので、その姿を見ることに尻込みしてしまうのでしょう。じゃあ公からの引き際はいつなのかと問われても、答えられる自信はありません。そういうことも含め、著者の「私は死ぬまで、どういうつもりで生きていけばいいのかわからない。」という言葉に大きく頷いてしまいました。

 最期の日まで心穏やかに一日一日を大切に暮らすのが理想ですが、そんなふうになれるとは到底思えません。著者が2週間ほどホスピスに入っていたころ、余命少ないと告知されながらも穏やかな表情をしていた女性に出会うのですが、わたしはそんな風になれそうにありません。くよくよして暗い表情を見せてしまう気がします。いろいろ考えさせられました。ねこのように100万回とは云いませんが、1回くらい失敗が許されるよう2回くらい生きられるようにならないものでしょうか。
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2012年08月01日

「ケンブリッジ・サーカス」

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柴田 元幸 著
スイッチパブリッシング 出版

 東大の先生としても翻訳家としても知られる柴田氏のエッセイです。想像とはまったく違うスタイルというか持ち味のあるエッセイでした。

 教鞭をとったり翻訳を大量にこなしたり雑誌まで出版したり、その広い活動範囲と並はずれた行動量から想像するイメージを裏切る静かな旅のエッセイでした。静かな旅というのは、ここで何かを見つけようという気負いもなく、ふらりと知らない土地を訪れたり、見知った土地の未知の空間に友人を案内したり、ちょっとした発見に喜びを見出すような穏やかな旅です。

 もうひとつ意外だったのは、学生時代のご自身と対話する場面があったり、夢のなかに迷い込んだかのような場面があったり、フィクション風に仕上がっている篇があって、時代背景とあいまって、セピア色した写真を見ている雰囲気を味わえました。なかでも、学生時代の視点でかつての恩師が描かれた場面と、いまの学生の視点で教壇に立つご自身が描かれた場面が並んでいたのが、印象的でした。

 第三者の視点から、かつての自分や現在の自分を書いたエッセイというのは、書いているご本人と本のなかに登場するご本人のあいだに少し距離ができている分、読んでいるあいだ後者が近くに感じられました。
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