2024年09月24日
「なぜ男女の賃金に格差があるのか:女性の生き方の経済学」
クラウディア・ゴールディン (Claudia Goldin) 著
鹿田 昌美 訳
慶應義塾大学出版会 出版
2023 年、にノーベル経済学賞を受賞した著者が、男女の賃金に格差がある理由を明らかにしています。
著者はまず、高等教育を受けた女性がどのように働いてきたか、データをもとに解説しています。驚くべきは、その期間が過去 100 年以上にわたっていることです。標本数が少ない調査も含まれますが、それでも実施された調査を丁寧に解析したことが窺えます。1961 年のある調査結果に対し、『宝の山』を再発見したと著者が評しているのも納得できる内容です。
さらに驚いたのは、大学卒業後の女性が世代によって、5 つのグループにきれいに分かれている点です。古いほうから、@家庭かキャリアか、A仕事のあとに家庭、B家庭のあとに仕事、Cキャリアのあとに家庭、Dキャリアも家庭も、と女性のキャリアにかかわる選択が遷移してきました。著者は、それを次のようにまとめ、それぞれの年代がそう選択した (できた) 理由を紐解きました。
その過程において、数々の法律が施行・改正されたり、著者が『静かな革命』と呼ぶ変化が起こったり、医学研究が進んだり、女性もキャリアをもつことができる環境が徐々に整ってきました。しかし、それでも、男女の賃金格差がじゅうぶんに小さくなったわけではありませんでした。
次に著者は、その格差は、チャイルド・ペナルティだったと明らかにしました。子どもがいなければ、賃金格差と呼ぶのが適切か少し迷うほど差は小さくなるのが、次のグラフからわかります。
また、仕事の種類による格差の大小も明らかにしています。つまり、男性が選ぶ職業と女性が選ぶ職業に偏りがあることが格差を生んでいるわけではありません。
仕事の内容として、(1) 他者との接触が多い、(2) 意思決定の頻度が高い、(3) タイムプレッシャーが高い、(4) 構造化されていない仕事が多い、(5) 対人関係の構築と維持が求められることが多い、(6) 競争の度合いが強い、といった条件が揃っている場合、時間あたりの単価が高くなります。しかし、子どもをもつと、両親ともこういった仕事に就くことは難しくなり、女性のほうが時間の制約の少ない仕事を引き受ける傾向にあり、それが賃金格差となって数字にあらわれています。
ただ、難しいのは、ここで明らかにされたのは、過去のことだということです。本書で現在と捉えられている時間もすでに過去になり、社会が変化するスピードは、さらに速くなっています。(1) から(6) の条件を満たさない仕事が増えていく可能性もあります。それでも、将来キャリアを構築したいと考える女子高生には、進路を決める前に読んでほしいと思う本です。どういった要素がどう賃金格差に影響を与えるのか理解するのは無駄ではないはずです。
2024年09月03日
「ほめ言葉の法則―心理カウンセラーが教える 101 のテクニック」
植西 聰 著
アスペクト 出版
わたしは、頼みごとなどの下心が見え隠れする褒めことばを言われても、素直に喜べません。そのため、下心がなくとも、下心があるような印象を相手に与えてしまうことを恐れて緊張するせいか、なかなかうまくひとを褒められません。
著者は、そういったときは、『より具体的に』褒めるよう勧めています。『文章が上手だね』ではなく、『テニヲハがしっかりしているし、文章全体のリズムがいいね』、あるいは『起承転結がしっかりしているね』といった具合です。これは、簡単に実践できそうな助言です。
また、褒められて当然のことは避けるべきだそうです。たとえば、東大生に対し、頭がいいとか、勉強ができるなどと褒めても、相手にとっては言われ慣れた褒めことばで、コミュニケーションを円滑にする役割は望めません。『東大生が歌やスポーツにある程度自信を持っていたら、「歌がうまいですね」「運動神経がいいんですね」』などと褒めることを勧めています。
著者は、『私は長年、人生相談を受けてきましたが、相談内容で最も多いのが、人間関係に関することでした』と書いています。わたしも、ひととのかかわりのなかで、どうすればいいのか、どうしたいのか、わからなくなることが多々あります。円滑なコミュニケーションには、褒めことばも重要な役割を果たすので、あまり身構えずに口に出せるようになりたいものです。
2024年09月02日
「The Missing Piece」
Shel Silverstein 著/絵
Harper & Row 出版
以前、日本語で読んだことのある絵本です。誰にでも描けそうな、シンプルな丸い顔から、意外にもしっかりと表情が読みとれたことが印象に残っていて、古本屋で英語版を見つけたとき、衝動買いしてしまいました。文章から受ける印象をもとに顔の表情を解釈しているのか、顔がそれぞれ巧みに描きわけられているのか、自分でもわからず、なんども見返してしまった記憶があります。
ただ、英語で読むと、日本語で読んだときとは印象が違う気がしました。日本語と比べてみたところ、この丸い存在との距離感に差があるように思えました。
英語では、丸い存在が The Missing Piece を探しに行く場面は次のようになっています。
And as it rolled
it sang this song--
"Oh I'm lookin' for my missin' piece
I'm lookin' for my missin' piece
Hi-dee-ho, here I go,
Lookin' for my missin' piece"
いっぽう、日本語は次のようになっていて、丸い存在のセリフ以外の部分も『ぼく』が語っているようになっています。
ころがりながら
ぼくは歌う
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを探しにね」
英語で it sang this song とあるのと、日本語で『ぼくは歌う』とあるのでは、なんとなく受ける印象が違う気がします。it とあると、自分が第三者として it を見ている気がするのです。英語と日本語の主語の違いは、ほんとうに奥が深いというか、難しいです。
だからといって、it を『それが』とすると、この丸い存在が妙によそよそしく感じられますし、違う言語である以上、同じにならないのが当たり前とわかっていても、この違いは興味深いと思いました。
2024年09月01日
「ビーチコーミング小事典: 拾って楽しむ海の漂着物」
林 重雄 著
文一総合出版 出版
ビーチコーミングに興味をもったきっかけは、ガイドと一緒にヒスイ探しができるという、富山県の『ヒスイ海岸』の観光情報でした。
さらに、この本を読み始めて、竜涎香 (りゅうぜんこう) が沖縄で見つかったというニュースを読みました。見つかった竜涎香は、たった 268 グラムで 442 万円もの値がついたそうですが、その生成過程を知り、さらに驚きました。『マッコウクジラはイカが好物で、オスの腸の中にまれにイカのくちばしを大量に含んだ黒褐色の塊ができ、いい香りが長続きする香水を作る原料の竜涎香になる。マッコウクジラを漢字で「抹香鯨」と表記するのは、この竜涎香に由来するとされる』と書かれてありました。ただ、極めて珍しいもののようで、著者は、約 20 年のビーチコーミング歴でも、竜涎香に巡りあったことはないそうです。
海辺で、ヒスイなどの石や香水の原料を見つけられるなんて、思いもしませんでした。本書によれば、ビーチコーミングは、『浜辺』の beach と『櫛 (くし) けずる』の combing を合わせたもので、『浜辺を櫛けずるようにていねいに見ていく』というところから名づけられたそうです。
著者は、ていねいに見ていくだけでなく、収集したり、分類したり、飾ったり、ビーチコーミングの魅力を伝えたりされているようです。数々の貝殻、特にベニガイ、ヒラザクラといったピンク色をした二枚貝やルリガイやアサガオガイといった薄紫色をした巻貝の写真を見ると、わたしもビーチコーミングを始めてみたいという気持ちが起こりましたが、この本を読み進めていくうち、いわゆる海ごみが浜辺に大量に打ち寄せられることを知り、ビーチコーミングよりビーチクリーンを先に始めるべきかもしれないとも思いました。
フルカラーの本書は、ビーチコーミングにしろ、ビーチクリーンにしろ、浜辺を歩く際の良き友になりそうです。
2024年08月31日
「水族館飼育員のキッカイな日常」
なんかの菌 著
さくら舎 出版
水族館で飼育員をしていた著者の体験が紹介されています。この本で知ったのですが、水族館は、博物館法という法律に定めのある博物館にあたるそうです。美術館などの学芸員になるのは狭き門のようですが、水族館も例外ではなく、競争率の高さは博物館全般に当てはまるようです。
そんな狭き門を叩いて潜り抜けたものの、待っていたのは体力も必要な仕事だったようです。著者の経験では、水族館に泊まることがあっても宿直室がなかったため、キッズスペースや階段の踊り場でブランケットにくるまって寝たり、企画展や特別展などがあれば、睡眠時間を削って準備したりしたそうです。
著者は、特別展の観覧者の様子を窺い、パネルなどで『渾身のボケがウケているのを確認』し、笑みを浮かべる人柄のようで、この本の、いわゆるヘタウマ 4 コマ漫画も文章もユーモアが溢れていて、思わず笑ってしまいます。
それだけでなく、水族館の仕事もしっかり伝わってきて、なかでも『同定 (採集や調査の際、その生き物の名前を判別すること)』は、『長年のプロであっても四苦八苦する』ほど難しいというくだりは、生き物相手の仕事だと再認識しました。
さらには、自らの方言にも気づけました。『ブリの学名は Seriola quinqueradiata とひとつだが、大きさと地域によって名前が変わる。40cm だとイナダ (関東)、ハマチ (関西)、ヤズ (九州)、60cm だとワラサ (関東)、メジロ (関西)、コブリ (九州) などとバラバラで、80cm になるとやっと全国で統一されてブリになる』とありました。ハマチが地域限定の名称だったとは心底驚きました。
これらのトピックそれぞれを楽しめただけでなく、水族館の裏事情を知って、次から企画展を観るときは、準備してくれた方々が伝えたいことも受けとれるよう心して観ようという気になりました。
2024年08月30日
「遺したい言葉」
瀬戸内 寂聴 著
NHK 出版 出版
著者が「これまで言えなかったこと、書かなかったことを言い遺しておきたいので、その相手をして欲しい」と中村裕映像ディレクターに依頼し、実施に至ったインタビュー (2006-2007 年) がもとになっています。
2021 年に逝去した著者がどうしても言い遺しておきたかったことを、わたしなりに想像してみました。周囲にどう思われようが、進む道を自ら選んできたこと、その際には決断の結果をすべて背負う覚悟で臨んできたこと、実際に不遇をかこつ結果になっても、反骨精神で乗り越えてきたこと、そのすべてがいまの自分をつくってきたことではないかと推察します。
それぞれのエピソードは、随所に書かれていますが、始まりは、「男が出来たから出ます」とは言わず、「小説を書きたいから出してください」と言って、家を出たことにあるように思います。死んでも小説家にならなければいけないと考えた著者は、その覚悟のあらわれとして、死に物狂いで書き続けたようです。わたしは、この『覚悟』は、ひとを本気で愛する強さであり、恋愛や愚かさも含めた人間のすべてを書き続ける強さであり、新しいことに挑戦し続ける強さではないかと思います。
70 歳代で 10 巻におよぶ、源氏物語の現代語訳を書いただけでも快挙だと思いますが、80 歳も近くなってから、舞台にかかわるようになり、オペラの台本を書いています。それぞれ新しいことに挑戦する際「やる以上は、モノにしようと思ってますよ」と語っています。
名を知られたひとが仕事をするのですから、経済的に裕福になろう、これまでの功績を汚さない範囲でやろうといった打算も少しは必要ではないかと心配になるくらいですが、著者自身は、自らの才能を信じていたのではないでしょうか。『芸術ってものは……文学だけじゃないですよ。もう一に才能、二に才能、三に才能、四に才能だって言うんですよね。四に努力くらい、三に努力くらい言ったらいいかもしれないけれどね、努力して出来るもんじゃない。やっぱりそれはね、持って生まれたものですよ』と言っています。だから、才能を授かった者として、お亡くなりになるまで書いたのかもしれません。
才能があったから強くなれたのか、強さもひとつの才能なのか、覚悟に至る道筋を知る由もありませんが、その決断力に喝采をおくりたい気持ちになりました。
2024年08月29日
「Hearts in Atlantis」
Stephen King 著
Pocket Books 出版
以下が収められた中短篇連作です。
(1) 1960 Low Men in Yellow Coats
(2) 1966 Hearts in Atlantis
(3) 1983 Blind Willie
(4) 1999 Why We're in Vietnam
(5) 1999 Heavenly Shades of Night Are Falling
連作としての構成に意外性があったこと、さらに 40 年という長い月日にわたって描かれる、ひとの『気持ち』とか『思い』のようなものに共感できたことが、印象に残りました。
これらのなかでもっとも長い作品 (1) の登場人物のその後が、続く 4 つの作品に描かれています。(1) の中心にいた Theodore (Ted) Brautigan と Robert (Bobby) Garfield のその後は、掌篇の (5) に短く描かれるだけで、3 つの短篇では Bobby のガールフレンド Carol Gerber や Bobby の親友 John Sullivan、Bobby とは友だちですらなかった Willie Shearman が描かれていて、Ted や Bobby のその後を期待しながら読み進めたわたしは、虚を衝かれました。
(2) は、ベトナム戦争の時代です。正義だと信じる『思い』は、ひとの数だけあり、自らが信じた正義に向き合うことが難しいこともあり得ると痛感しました。(3) も (4) も過去を引きずっているひとたちの『気持ち』のやり場がないように思えました。
ただ、ひとりの人間がほかのひとと出合い、別れ、ふたたび接点のできる場面の数々を読むと、ひととひとの結びつきは、一緒に過ごした時間の長さや互いが住む場所の距離にはかかわりなく、『思い』の強さで決まるのだと思いました。違う道を歩むことになり、会うこともないとわかっていても、自分にとって相手が大切なら、思い続けることに意味はある気がします。たとえば、Carol は、元恋人に送った手紙に、自分たちが行先の異なる別の列車に乗っているとしても、ふたりで過ごした時間を忘れることはないと書いています。そのことばには心から共感できました。
また、Ted は、Green Mile に登場した John Coffey を思わせる、不思議な力をもっています。そんな Ted と Bobby のつながりは、ふたりで過ごした時間の短さや別れを選ばざるを得なかった事情とは関係なく、時間や空間を軽々と超え、Ted は、不思議な力で Bobby に大切なものを届けます。送った Ted の思いも、それを受けとった Bobby の気持ちも、わかった気がしました。
この作家の、不思議な力そのものではなく、それを通してひとを描いた作品は、わたしにとって読み応えがあります。
2024年08月03日
「ちいさな言葉」
俵 万智 著
岩波書店 出版
何気ない日常を短歌にして一世を風靡した歌人だけあって、ことばを覚えつつある息子が、ほんの束の間使うことばなどを聞き流さず、観察し、エッセイとして残しています。
たとえば『おんぶ』。著者は、息子をおんぶしたことがなく、おんぶされるほかの子を見た息子は、『背中で抱っこ』してほしいとねだったそうです。でも、『おんぶ』ということばを知ってしまうと、『背中で抱っこ』を使わなくなったそうです。著者は、そんなことばを次のように見ています。
子どもの言葉に、はっとさせられることは多い。手持ちの言葉が少ないぶん、表現したい気持ちがそこに溢れていて、聞いた大人は楽しくなる。時には楽しくなるだけでなく、驚いたり、考えさせられたりもする。このエッセイで、わたしが一番はっとさせられたのは、わたしにはもう残っていない熱量でした。著者は、ことあるごとに息子から『英語でいうとなに?』と尋ねられた時期があったそうです。『英語でいうとなに?』攻撃は、それこそえんえんと続いたようで、著者は、『必要に迫られなくても身につけたいと思うのが、子どもなのかもしれない』と結んでいます。
英語くらい話せないと困るかもしれないとか、英語ができないと試験に合格できないとか、そういった計算ではなく、自分たちとは違うことばを純粋な好奇心から知りたいと思う気持ちは、わたしにもありました。日本語との違いに気づくたび、日本語への理解も深まり、おもしろくて仕方がなかった頃のことを思い出し、あの熱量はもう戻ってこないのだと気づかされました。わたしも著者同様、考えさせられました。
2024年08月02日
「名文と悪文 ちょっと上手な文章を書くために」
名文と悪文が実例付きで紹介され、優れた文章指南書と悪い文章指南書にも触れられています。著者が悪文とする例では、文章を世に出す仕事の方々、国文学者、新聞記者、大手出版社の編集者、翻訳家などが辛辣に批判されています。ただ、新聞や書籍の読者のひとりとしては、著者の主張には納得できましたし、これまでの疑問が氷解した点もありました。
一文を短くすると、伝わりやすい簡潔な文章になると信じていたいっぽう、短い文章を読んで、舌足らずのように感じることが多いことに疑問を感じていました。その感覚が正しい可能性もあると思ったのは、著者が『第 8 章 短文信仰を打ち破れ』で、朝日新聞の天声人語をひとつ引用し、次のように解説していたからです。
「昨日も今日もあしたも」「活動の広がりと深さ」「息遣いが聞こえる」「男も女も外国人も」「人間らしさを求める営み」「仲間」「生きている喜び」「新しい自分に出会う」。
かういふものがつまりは内容空疎な感情語であり、新聞特有の説教臭の漂ふ詠嘆語なのだが、これを立て続けに並べることで、人間愛の讃歌を奏でようといふわけだ。
(中略)
かうした一種の宗教音楽を支へるものは、この特有の語句に加へ、一句毎に感情を盛り上げて行く短文の連続に他ならない。短文が呪文を導き、呪文は短文を要請する。
つまり短文は決して文章を簡潔にも歯切れよくもせず、むやみに湿った、感情に絡みつき搦め取る体の、感傷に満ちた「抒情詩」となるのである。
短文で名文を書くのは難しく、短文にこだわって自己陶酔に終わってしまうのなら、やめるべきという、この助言同様厳しいのが、名文の定義です。丸谷才一のことばを引用しています。
ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋れてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。
わたしの器に合ったものが『わたしの名文』だと言われて途方に暮れますが、当然といえば当然です。また、丸谷才一は、『自分が、名文だとそのとき思った。それを熟読玩味して真似ようと努力する。そのうちに文章を見る目が上がるんじゃありませんか』とも言っています。
悪文も名文も充実した内容でしたが、わたしにとって一番印象的だったのが、『あとがき』です。著者は、この本が新仮名遣ではなく歴史的仮名遣で書かれている理由を語り、『もし私達が、先人の苦闘に対して少しでも謙虚な気持になれるなら、たうてい歴史的仮名遣は棄てることができないはずである』と書いています。歴史的仮名遣を棄てたという意識はわたしにはなく、日本語の歴史に対する無知を思い知りました。著者の薦める『私の国語教室』(福田恒存著)を読んでみたいと思いました。
2024年08月01日
「Not a Penny More, Not a Penny Less」
Jeffrey Archer 著
Pocket Books 出版
読みたいと思う本が次から次へとあらわれるため、気に入った本でも再読することは、滅多にありません。でも、この本は、初めて完読した英語の本なので、また読んでみました。
学生だった当時も今回も、詐欺被害者たちが詐欺師を 3 回も騙し、首尾よく大金を取り戻す姿に喝采を送りたくなったことも、結末に驚いていいのか溜息をついていいのか戸惑ったことも変わりはないのですが、変わったこともありました。
実業家であり詐欺師でもある、Harvey Metcalfe が株式を使って仕掛けた詐欺のスキームを当時はあまり理解できなかったのですが、いまなら如何にシンプルな詐欺だったかよく理解できます。社会に出て、株式市場などの基礎知識が身についたせいでしょう。
Harvey に大金を騙しとられ、それを取り返そうとする 4 人組、Stephen Bradley、Robin Oakley、Jean-Pierre Lamanns、David Kesler に対し、初読時は Harvey を緻密に調べあげ、チームを率いた Stephen に憧れつつ、David がチームのお荷物にならないかハラハラしましたが、今回は意外にも David に憧れを感じました。気力も体力も充実していたころなら、わたしも Stephen のようになれたかもしれないと思ういっぽう、David には絶対なれないと知ったからかもしれません。
長い時を経て同じ本を読むと、何かを得られることもあるようです。今回の再読では、自らの変化を知ることができました。また、長い時が過ぎると、社会が大きく変わって、小説のちょっとしたモノやコトに違和感を感じることも多々あるいっぽう、ひとを欺いていても、自分は騙されないと信じる人間の愚かさのようなものは変わらず、すんなり受けいれられるのだと感じました。