2020年07月30日

「数字に騙されないための 10 の視点 統計的な?」

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アンソニー・ルーベン (Anthony Reuben) 著
田畑 あや子 訳
すばる舎 出版

 わたしが数字を見るときに気をつけていることが、この本の終わりのほうに書かれてありました。アンケート調査や経済モデルを見るときに『最初にすべきことは、その調査を実施したのは誰で、それに金を払っているのは誰かを確かめることだ。それによって正当化されるキャンペーンをしているグループが発注している場合は、その結論を少し疑うべきだが、独立したグループであっても、かたよったグループと同じように間違う場合がある』。

 しかし、それよりもっと端的なヒントが最初に記されていました。『これは真実だとしたら理にかなっているだろうか』。その数字が本当だったら理屈に合わないと思ったら、疑うべきだということです。

 そう言われても、理にかなっているか何をどのように評価すればいいか、なかなかわからないものです。だから著者は、こういうときは特に注意すべきという具体例を 10 点あげています。

 たとえば、実数がなくパーセントだけ表示されているときは、注意が必要だと警告しています。『毎日ソーセージを 1 本かベーコンを 3 切れ食べていれば、膵臓がんの発症リスクが 20 パーセント上昇する。』とあった場合、わたしなどは反射的にソーセージやベーコンを食べるのが怖くなります。しかし、実数を見ると、違う印象を受けることもあります。具体的には、1 日にソーセージを 1 本かベーコンを 3 切れを食べていなければ、400 人中 5 人が (生涯で) 発症し、それらを食べていれば、6 人に増えるという実数です。

 また、原価計算も危険だと注意を促しています。その理由は、 算出方法次第で、何かを安く、あるいは高く見せることが簡単だからです。まず、特定ケースの原価を見せる動機を考え、そのコストが特定ケース以外でも負担されるものか、あるいはその特定ケース限定の追加費用かを確認して、目の前の原価計算にどれだけの信頼がおけるか判断するよう勧めています。

 いつも、わたし自身がうまく説明できない単語『信頼水準』と『信頼区間』についても、ONS が出す失業者数を例に『失業者数の変化を表す数字は一般的には信頼水準 95 パーセントで約 7 万 5000 の信頼区間であるが、その意味は、失業者数の変化は ONS が出した数字のプラスマイナス 7 万 5000 の範囲であることに 95 パーセント確信をもっているということ』と、わかりやすく説明しています。

 数字に騙されないようにするためのコツがつかめるようになる良書だと思います。
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2020年07月29日

「星に仄めかされて」

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多和田 葉子 著
講談社 出版

 この「星に仄めかされて」は、「地球にちりばめられて」から始まる 3 部作の 2 作目です。スタイルは、前作から継承されていて、登場人物それぞれの視点で語られます。

「地球にちりばめられて」の最後で、Hiruko は、自分と同じ母語をもつ Susanoo と漸く会えたと思ったのもつかの間、彼がひと言も発しないことから、失語症ではないかと疑い、その治療のために医師のもとに連れて行くことになりました。その医師は以前、クヌートと天文言語学のゼミで一緒だったベルマーです。

 本作の『第 2 章 ベルマーは語る』で、中年男性のベルマーは、自身のことをこう語っています。『自分がみんなに嫌われているなど考えてみたこともなかった。「自分」という名前の楽しい闇の中で生きていた。どこが壁なのか分からないので、狭いと感じることがない。自分というものの輪郭は見えない。自分のいる空間全部が自分だから無理もない。』

 いわゆるジコチュウの心のなかは、まさしくこんな感じなのだろうと思いました。その納得感は、ジグソーパズルのピースがぴたりとはまったときと似ています。なんとなく探していたけれど、どういう色か形か触感か、はっきりとは知らず、目の前に差し出されたとき初めて、間違いないと確信をもてたような感じです。

 多和田作品を読んでいると、なんとなくわかっていたけれど、ことばにしてあらわすとこうなるのか! と、初めてわかったような文に巡り合います。その感覚をまた味わいたくて、ときどき多和田作品を読みたくなってしまうのかもしれません。
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2020年07月28日

「地球にちりばめられて」

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多和田 葉子 著
講談社 出版

 この「地球にちりばめられて」は、3 部作の 1 作目で、群像劇のような小説です。第 1 章から第 10 章までそれぞれ『〜は語る』と、それぞれの視点で語られます。

『第 2 章 Hiruko は語る』で語る Hiruko は、留学を終えて母国である、中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島に帰ろうとしていた直前に母国が消えてしまい、自分と同じ母語を話す人を探す旅に出ます。その旅に同行するクヌートは、デンマークに住む言語学者の卵です。

 ふたりの接点は、あるテレビ番組でした。帰る国を失った Hiruko は、留学先のスウェーデンに定住できず、ノルウェー、デンマークと移り住みます。短期間で三つの言語を習得したものの、それぞれをきちんと使い分けるのは難しく、スカンジナビアの人なら聞けばだいたい意味が理解できる、『パンスカ』(『汎』という意味の『パン』に『スカンジナビア』の『スカ』をつけた造語) という人工語を作りだし、出演したテレビ番組ではパンスカでインタビューに答えました。

 その番組を見たクヌートは、Hiruko 自身に惹かれたのか、彼女が作ったパンスカに惹かれたのか、同じ母語を話す人を探しに行く Hiruko について行きます。

 Hiruko が最初に尋ねた人物は、彼女と同じ母語を話すことは話しましたが、独学で学んだだけで、彼自身はエスキモーでした。Hiruko は、落胆するでもなく『あなたに会えて本当によかった。全部、理解してくれなくてもいい。こうしてしゃべっている言葉が全く無意味な音の連鎖ではなくて、ちゃんとした言語だっていう実感が湧いてきた。』と言います。

 そのエスキモーの彼のほうは、グリーンランドで、アメリカの会社にリモートで働く父とスイスの会社にリモートで働く母のもとで育ちました。生活に不自由はありませんでしたが、『このまま行くと俺たちは何世代も家を出ないまま、インターネットだけで世界経済と繋がって生きていくことになってしまうんだろうか。でも、もしもディスプレイにあらわれる世界が誰かのつくりもので実際にはすでに存在していないとしたら、どうなんだ。』そう考えるようになり、父親から外国に留学するように勧められたのを機に家を出ていました。

 多和田作品を読むといつも、言語に対する新しい視点や気づきを得るのですが、今回はそれだけでなく、COVID-19 の影響で、コミュニケーションが制限された暮らしをしているため、言語を使ったコミュニケーションについても思うことがありました。
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