2020年10月27日

「分裂国家アメリカの源流」

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水川 明大 著
PHPエディターズ・グループ 出版

 米国資本の会社に勤めているので、ほかの国に比べて米国を知っているつもりでいましたが、その建国については何も知らなかったと、この本が気づかせてくれました。

 この本の初めには米国の 1 ドル札、5 ドル札、10 ドル札が掲載されています。それらに描かれているのは順に、ジョージ・ワシントン、エイブラハム・リンカーン、アレグザンダー・ハミルトンです。

 ワシントンは、アメリカ合衆国の父と呼ばれ、初代大統領を務めました。リンカーンは、第 16 代大統領であり、government of the people, by the people, for the people の演説が有名です。

 著者は、ハミルトンが『アメリカ政府の父』であることは間違いないとしていますが、その割にはいままでわたしが耳にする機会があまりありませんでした。しかし、この本で彼の功績を読めば、『アメリカ政府の父』と呼ばれることも当然に思えます。

 その理由は数多くありますが、わたしが印象に残っているのは、以下の 3 点です。

1.中央集権的統一国家の確立

 わたしは、この本を読むまで意識したこともなかったのですが、北米大陸の 13 の植民地が英国からの独立を宣言したとき、ひとつの国家を作り、その国家が独立すると宣言したわけではありませんでした。(13 の植民地がそれぞれの独立性を維持しつつ、連合して行動を起こしたに過ぎません。)

 そのため当初は州のみが権限を有する状態だったのを、連邦が関税賦課、条約締結、貨幣鋳造などの権利をもつように変えました。

2.国立銀行の創設

 いまのアメリカの領土があるのは、現在の領土のちょうど真ん中あたりを占める 82 万 7000 平方マイルという広大な土地を買わないかとフランスから 1803 年に持ちかけられた際、購入することができたからだと言っても過言ではありません。その資金を調達できたのは、国立銀行がすでに設立されていたからです。この土地購入ひとつとっても、国立銀行が必要となると見越したハミルトンは、偉大だと思います。

3.憲法の広義解釈論の確立

 ハミルトンは『黙示的権限の法理』(憲法の広義解釈論) を完成させました。これは、憲法に記された権限を行使するために必要なあらゆる手段を用いる権利が政府にはあるという考え方、つまり、目的が合憲であれば、そのための手段も合憲であるという考え方のことです。前述の国立銀行も、憲法に定めはありませんが、合衆国政府に付与された権限を行使するために必要であるというこの広義解釈論をもとに創立されました。

 どの点をとっても、ハミルトンの先見の明に驚くほかありません。
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2020年10月26日

「ザリガニの鳴くところ」

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ディーリア・オーエンズ (Delia Owens) 著
友廣 純 訳
早川書房 出版

 タイトルの「ザリガニの鳴くところ」とは、茂みの奥深く、生き物たちが自然のままで生きてるところです。この本は、まさしくそんな場所のすぐ近くを舞台にした小説です。

 物語は、1969 年、白人の青年チェイスがノースカロライナ州の湿地で遺体で発見されるところから始まります。その直後物語は、カイアという 7 歳の白人少女が湿地で暮らす 1952 年に戻り、そのあと、カイアの暮らしとチェイスの死が交互に語られ、物語が進むについれ、その 2 本の線が交わります。

 物語の最後で、チェイスの死が事故だったのか殺人事件だったのかが明らかにされるので、この作品をミステリ小説と捉えることもできます。

 でもわたしは、高等生物とされる人間に備わっているはずの理性や品格を捨て去り、ほかの生物と何ら変わることなく自分を優先して生きた人々とその後悔、そんな人々に孤独を強いられたカイアの成長などを描いた作品だと受けとめました。

 ある七面鳥の群れが、そのなかの 1 羽の雌を攻撃しているのを見かけた 15 歳のカイアは、むかし兄のジョディから聞いたことを思い出します。
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原因が怪我であれ何であれ、もし見た目がほかの鳥たちと違ってしまったら、捕食者の注意を惹きやすくなるので群れはその鳥を殺そうとすると。ワシを引き寄せてしまえばついでにほかの鳥も襲われてしまうから、そのほうがましなのだと。
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 人間にもそんな遺伝子が脈々と受け継がれていて、その本能に従って生きていると、疎外され続けたカイアは思ったのかもしれません。

 そして、人間社会からはじき出された女性から、すべてを覆いつくしてほしいと頼まれたであろう自然が、それを拒絶したように見えたことも、より一層悲しく感じられました。

 黒人には選挙権もなかったカイアの少女時代、虐げられ続けた黒人たちが、カイアに優しく接した姿が、白人たちの残酷さと対照的で心に沁みました。
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2020年10月25日

「グッド・ドーター」

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カリン・スローター (Karin Slaughter) 著
田辺 千幸 訳
ハーパーコリンズ・ ジャパン 出版

 いわゆるページターナーであることは間違いありません。真実は別にあるという匂わせが数多く埋めこまれてあり、隠されている何がか気になって、どんどん読み進めてしまいます。

 クイン一家は、弁護士の父親、天才級の科学者の母親、ふたりの娘の四人家族でした。それがある日、母親が殺害されるという凄惨な事件に見舞われます。

 残された家族が何とか前を向いて生きていけるようになり、28 年という長い年月が過ぎてから、中学校で起こった銃乱射事件を機に 28 年前の事件の真相が明らかになります。その過程で、父親、長女、次女、それぞれが秘密を隠し続けてきたことが匂わされ、いずれも最後の最後に明らかになります。

 ふたりの娘が父親と同じ弁護士という職業に就き、弁護士一家となったクイン家の視点で見る銃乱射事件が物語のひとつの軸になっているいっぽう、クイン一家の家族としての再生がもうひとつの軸になっています。

 構成としては一般的ですが、わたしの好みとしては少し物足りないように感じました。理由は、ふたつあります。ひとつは、クイン一家以外で事件に大きく関わった登場人物の描写が少なすぎた点です。もうひとつは、最後の最後ですべての謎を明らかにするということにこだわったせいか、それまでの語りに隠蔽があったことです。

 そうなった理由を推測するに、すべてを最後の最後に明らかにするのと引き換えに、犯罪を隠蔽する動機を窺い知ることができるような描写が一切書かれなかったことにあるようです。

 わたしの好みとしては、クイン一家以外の登場人物にも厚みのある人物像が描けるような工夫が欲しかったところです。
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2020年10月11日

「木になった亜沙」

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今村 夏子 著
文藝春秋 出版

 第 161 回の芥川賞を受賞した作家のことが以前から気になっていたので、読んでみました。ファンタジー風とも、不条理劇風とも、受けとれます。物語の基幹を成す『転生』や『拒絶』の印象が強いせいだと思うのですが、正直なところ、どういう位置にある作品と言えばいいのかよくわかりません。

 短篇三作品、「木になった亜沙」、「的になった七未」、「ある夜の思い出」のいずれも、主人公は人間以外のものに姿を変えます。「ある夜の思い出」の主人公、真由美にいたっては、人間から猫に姿を変え、交通事故を機にまた人間に戻るという、二度のへんげを見せます。

 また各作品では、強い拒絶や願望も描かれています。亜沙は、自らが差し出した食べ物を拒絶され続け、ある日、木になり、割り箸になります。拒絶をもとに自然と強い願望が生まれたようにも見えますが、同調圧力がかかったようにも見えます。

 そう考えてみると、学校のいじめ、ゴミ屋敷、結婚をちらつかせて愛人関係を迫る男、引きこもるニートなど、現代の日本社会では決して珍しくはない、さまざまなできごとが散りばめられています。なかには、ゴミ屋敷の住人の価値観や引きこもりたくなるニートの視点など、一般的とは言い難いアングルで現代の社会問題を捉えた描写もあり、ファンタジーというオブラートに包みながら社会問題を描いた作品のようにも見えます。

 なんとなく村田沙耶香作品を思わせる雰囲気が感じられました。
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2020年10月10日

「フィフティ・ピープル」

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チョン・セラン 著
斎藤 真理子 訳
亜紀書房 出版

 題名の「フィフティ・ピープル」は、この作家が『主人公のいない小説を書きたい』と思い、それが無理なら、全員が主人公で、主人公が 50 人ぐらいいる小説がいいと思ったことからきています。でも、実際に仕上がった小説には、この作家によれば、51 人登場するとか。それぞれの主人公の話が 10 ページ前後ずつ続きます。

 韓国の作品なので、日本や米国あたりでよく見かける名前に比べ、登場人物の名前が覚えにくく、最初は読み進めるのに苦労しましたが、あるストーリーの主人公が別のストーリーの脇役として再登場してもちゃんとわかり、物語と物語を結ぶ橋のような人物を探す愉しみも味わえます。

 これだけ数多くの主人公が登場すると、どの主人公にどのような感情を抱くか、誰に惹かれるかによって、これまで見てこなかった自分自身の一面を再認識させられた気がします。人のことを想う苦しさと喜びの両面を描いているチェ・エソンとキム・ヒョッキョンのストーリーには、特に惹かれました。これほどまでに人を想うことができなかった自分は「The Missing Piece」の主人公とは違って、いつまでも転がり続けて朽ち果てたように思えました。

 娘が欲しいと思っていたチェ・エソンは、ふたりの息子の嫁ふたりのうち、人形のように明るく朗らかなユンナが事故に遭ったことを機に、ふたりの嫁のことを実の娘のように思っていることに気づきます。ヒョッキョンは、天才少女と呼ばれる同僚の医師を想うあまり、彼女をサポートするために生まれてきたも同然だと何年ものあいだ考え続けた末、とうとう彼女とのデートにこぎつけます。

 いっぽう、欲しい欲しいと思っていたわけではないのに仕事運に恵まれたヤン・ヘリョンのストーリーは、誰かが見ていてくれるという幸運をわたしに思い出させてくれました。ヤン・ヘリョンは、誰もが大切に思って当然の存在、たとえば家族のような人たち以外に対しても、その人が喜ぶ何かをしてあげたいと強く想うあまり、大けがを負いますが、仕事運に恵まれます。

 自分が望んでいたものや忘れていたものをあらためて気づかせてくれた短編連作といえるかもしれません。
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