2021年05月18日
「結婚という物語」
タヤリ・ジョーンズ (Tayari Jones) 著
加藤 洋子 訳
ハーパーコリンズ・ジャパン 出版
タイトルにあるとおり『結婚』とは何か、どうあるべきかなどを問いかける物語です。もちろんその答えはひとつではなく、正解もありません。それを示すかのように、この物語の数少ない登場人物の結婚のかたちもそれぞれです。
ただ、この物語に登場する夫婦の事情を追っていくうち、『結婚』という制度と人を愛し人生を共にしたいという思いは、別のものだということをわたしたちは忘れかけているのではないかと思いました。
この物語の登場人物のひとりが、相手を愛しながらも『結婚』というかたちを敢えて選ばず、単に『一緒に人生を生きる』ことを選ぶのも、ひとつの答えとして納得できました。
この物語の中心にいる夫婦ロイとセレスチェルは、結婚して 1 年半経ったある日、夫のロイが無実の罪で 12 年の刑に服すことになります。無実の罪でありながら辛い刑務所暮らしに耐えている自分を妻が支えてくれることを最大限期待するロイと、たった 1 年半しか夫婦として過ごしていないのに 12 年も待つことを期待されて戸惑うレイチェルの気持ちはすれ違っていきます。
ロイとセレスチェルの結婚に対する考え方が異なることから起こるすれ違いに見えますが、実はそう単純なことでもありません。ロイとセレスチェルはともに黒人で、ふたりの家族も黒人です。つまり、彼らは社会に対して期待できることが相対的に少なく、そのぶん違うところに怒りが向かうようなのです。
ロイが無実の罪で服役することになったのは、『間の悪いときに間の悪い場所に居合わせた黒人の男というだけだ。それだけのことだ』とセレスチェルの父親は言います。彼が費用を負担して、きちんとした弁護士をロイにつけて上訴手続きを進めさせていても、無罪になることはないという諦念が漂っています。
セレスチェルは、夫婦の関係を確かにするだけの時間を過ごしていない相手への気持ちが薄れて夫とは別の道を歩みたいと思う本心と、結婚の際に約束したように死がふたりを分かつまでの愛を要求する夫とのあいだで気持ちが揺れて、結局は、夫として愛せなくとも、自分を夫に捧げようと観念します。
ロイのほうは、罪を犯していない自分が刑務所に入ることによって、仕事も家族も失うのは理不尽であり、取り戻すことができない仕事は諦めるしかないにしても、せめて家族を取り戻そうと必死になり、セレスチェルやセレスチェルの恋人アンドレに怒りをぶつけ、妻としての役目を果たすよう迫ります。
わたしが理解できなかったのは、無実の罪をきせた者たちに怒りを向けず、まるでセレスチェルが無実の罪をきせたことを償わなければならないかのような論理の流れになっていることです。何の非もないのに、仕事も家族も失うのは無慈悲だ、だからせめて妻は妻のままであるべきだという理屈に違和感を感じました。
セレスチェルが、妻としてではなく友人としてあるいは妹のような家族として、経済的支援をじめとする支えを約束しても、ロイはそれを受け入れられず、怒りをおさめることもできません。
無実の罪をきせられるという甚大な誤りをすっ飛ばして、妻が理不尽を贖うような考え方に違和感を感じると同時に、世の理不尽を押しつけられた者は、それをほかの人に向けてしまうものなのかと思うと悲しくなりました。ただ、ロイの最後の決断には救われました。