2021年06月22日
「問題解決ができる! 武器としてのデータ活用術」
柏木 吉基 著
翔泳社 出版
副題は「高校生・大学生・ビジネスパーソンのためのサバイバルスキル」です。学生や社会人がデータ活用スキルを伸ばすことができるよう著者が支援した経験がベースになっています。データを活用できないのはなぜか尋ねられることが多いので、何から説明すべきか参考にしたくて読みました。
本当の初心者、つまりデータというものを活用した経験がなかったり、社会に出て間がなかったりする方々には、こういうことを説明する必要があるのだと学ぶことができました。この著者が説明していることはどれも、わたしが説明する必要があるとすら思っていなかったことでした。目の前にいる人が、自分が当然だと思っていることを当然と思っていないことに気づけなければ、何も伝わらないのだと思い知った気がします。
たとえば、考えることが重要だという点で認識を合わせることは必須です。データを活用しようと思ったとき、データ分析手法を学ぶことより、目的を明確化し、仮説を立て、結果から結論を導きだすほうが重要です。
また、正解はひとつではないのが当たり前だということに互いが納得する必要があります。(正解だと断定できないことが多いともいえます。) また、ある結論を支える材料も、ひとつ見つければ、それで終わりということでもありません。
そのほか、仮説を立てても立証できるとは限りませんし、データをヴィジュアル化しても仮説が立てられないこともあるでしょう。いろいろなデータを複数の視点で試してみる必要があります。その点については、次のチャートがわかりやすかったと思います。左側の『指標を特定する』前に『目的・問題を定義する』が入っている点も優れていると思います。データを見ているうちに、解決すべき問題から外れてしまうことは起こりがちだからです。
また、著者が難しいことばを使っていない点も見習いたいと思います。たとえば、評価をする際に必要な比較のテクニックについて『「値の大きさ」「推移」「バラつき」「比率」の四つの尺度で適切にデータの特徴を捉える』ようアドバイスしています。『標準偏差』という単語さえ使っていません。
基本こそ、しっかりおさえるべきだと学ばせていただきました。
2021年06月21日
「最後の瞬間のすごく大きな変化」
グレイス・ペイリー (Grace Paley) 著
村上 春樹 訳
文藝春秋 出版
以下が収められた短篇集です。
− 必要な物 (Wants)
− 負債 (Debts)
− 道のり (Distance)
− 午後のフェイス (Faith in the Afternoon)
− 陰鬱なメロディー (Gloomy Tune)
− 生きること (Living)
− 来たれ、汝、芸術の子ら (Come On, Ye Sons of Art)
− 木の中のフェイス (Faith in a Tree)
− サミュエル (Samuel)
− 重荷を背負った男 (The Burdened Man)
− 最後の瞬間のすごく大きな変化 (Enormous Changes at the Last Minute)
− 政治 (Politics)
− ノースイースト・プレイグラウンド (Northeast Playground)
− リトル・ガール (The Little Girl)
− 父親との会話 (The Conversation with My Father)
− 移民の話 (The Immigrant Story)
− 長距離ランナー (The Long-Distance Runner)
グレイス・ペイリーは、本書を含めて短篇集 3 冊を発表したのみと著作数は極めて少ないのですが、知名度の高い作家だそうです。不勉強なわたしは、この作家のことを知りませんでしたが、近くの図書館で開かれた本の交換会で、この本を薦めているような、いないような推薦文 (右側の画像の帯) が気になって知ることになりました。
社会そのものの一部がこの本に収まっているような短篇集にも見えますし、幸運に見放された人々にも公平にスポットライトがあたった群像劇のようにも見えます。
なぜ、この短篇集が社会の縮図のように見えたのか。たとえば、フェイス (ペイリー自身がモデル) は、「午後のフェイス」に娘として登場するだけでなく、「生きること」では、生きることに疲れた女性としてあらわれ、「木の中のフェイス」では、小さな子供を抱える母親としてママ友と話しをしています。さらに「長距離ランナー」では、子供が大きくなった 42 歳のフェイスがあるとき突然、少しでも遠くに少しでも速く行きたいという思いにとらわれ、ランニングを始めます。
ひとりの人物が社会的にいろんな立場で生き、それぞれの場面でそれぞれ違う顔を見せるが実社会です。それに似た状況が短篇集全体で再現されているように見えました。キティーは、ある男の女友達として「来たれ、汝、芸術の子ら」に登場しますが、そのときは母性をまったく感じませんでしたが、「木の中のフェイス」でフェイスのママ友として再登場したとき、フェイスに『キティーは母親業の仲間だ。この稼業では最高に腕がいい』と紹介されています。
誰がどんな顔で、どこに登場するか、「ウォーリーを探せ」気分で読みました。それは、意図したとおり読者に伝わるよう整然と組み立てられた空間を見せる短篇連作と違って、フェイスとその家族・友人だけでなく、彼らと直接かかわりのない人々がいくつもの短篇・掌篇に登場するなかを、自ら探索するような気分で読んだということなのかもしれません。
ただ、そういった特徴は、この短篇集の個性のひとつに過ぎません。この作品を翻訳した村上春樹氏が、『ぶっきらぼうだが親切、戦闘的にして人情溢れ、即物的にして耽美的、庶民的にして高踏的、わけはわからないけどよくわかる、男なんかクソくらえだけど大好き、というどこをとっても二律背反的に難儀なその文体』と評しているとおり、作家のメッセージを永遠に受け取れないようなところに惹かれ、あとをひく読書体験ができました。
2021年06月20日
「日没」
桐野 夏生 著
岩波書店 出版
怒りが書くことの原動力になることが多いと、直木賞受賞作家が対談で話していたのを思い出しました。
マッツ夢井というペンネームで小説を書いている作家がある日、映倫の書籍版のような総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会という組織に軟禁され、社会に適応した作品を書くよう更生を強いられるところから物語は始まります。映倫と違って多大なる強制力を有するブンリン (文倫) は、レイプや暴力、犯罪などを肯定する人物が登場する小説を書くのは反社会的であり、そんな作品を書いている限り、社会に戻すことはできないと言い渡します。
マッツ夢井は、小説は、全体でひとつの作品なので、レイプや暴力の部分だけ、それらのことばだけを取り上げて論ずるのは間違っていると反論しますが、一切相手にされず、水かけ論が続きます。しかし、個人的尊厳も権利も何もかも剥奪する体制を敷いている行政機関相手に為す術もなく、マッツ夢井は、精神的にどんどん追い詰められていきます。
いまの日本の状況をオーバーに描くとこうなるのでしょうか。少し時間をかけて包括的に理解しようとする意思はなく、細断された部分だけで善悪を判断する姿勢は、何が何でも相手の落ち度を見つけ、よってたかって批判しようとしているようにも見えます。
もしこの作家が、自らが感じた怒りを原動力にこの作品を書いていたら……、そう思うと、この作品の結末が気になって仕方がありませんでした。一気に読み、最後の一文を見たとき、やり切れない気持ちになりました。同時に、人という弱い存在が忠実に描かれているようにも感じられました。
2021年06月19日
「データ視覚化のデザイン」
永田 ゆかり 著
SBクリエイティブ 出版
データを活用したいけれど、どう活用すればいいのかわからないというエントリレベルの方々に参考になる情報が載っています。
わたしは、グラフなどの資料を見て、『メッセージが読みとりにくい』『何を伝えたいのか見えない』などの所感を抱くことが多い割に、どういった改善案を提示すればいいのか、わかっていませんでしたが、そのヒントがこの本にありました。新たな情報を脳が受けるときにかかる『認知的負荷』を下げるよう、著者は助言しています。つまり、詰めこみすぎに注意すべきということです。
たとえば、色の多用をやめ、グレーのみにするとか、際立たせたい部分のみカラーをつけるとかの工夫が必要です。3 色を限度にカテゴリ別に色分けするのもいいかもしれません。(人間が一度に認識できる色の数は 8 色までと言われているそうです。)
タイトルなども、中立的にするのか、意見を前面に出すのかなどを充分に練ったうえで絞りこみ、そのうえで重要なことは大きく表示します。あわせて、フォントの種類なども極力減らします。
罫線や凡例なども、本当に必要か吟味します。そうして、絞りこんだ結果として空白が生じても、恐れる必要はありません。少なさなど何かを語る空白は、そのままにしておくべきです。
またわたしは、『やって (加工して) みないとわからない』ということも度々言っている気がしますが、その点についても、何を見てみるのかわからない方もいるのではないかと気づかされました。
棒グラフで量を比べてみる、円グラフで割合を見てみる、折れ線グラフで推移を見てみるあたりまでは、実践できる方が多いかもしれませんが、その先に何を試してみるかを伝えるべきだったように思います。
たとえば、推移を見るときも一般的な折れ線グラフのほか、ヒートマップやエリアチャート (面グラフ) を作成してみたり、要素が多くトレンドが異なる場合は、折れ線を分けるスパークラインを活用するという方法もあります。
さらに、まったく別の観点から、分布や関係性に注目したり、地図を使って視覚化するという方法もあります。ヒストグラムや箱ひげ図 (ボックスプロット) を活用すると、分布傾向を把握できます。散布図や散布図よりさらに変数をひとつ増やしたバブルチャートを作成すると、関係性を俯瞰することができます。昔と違って、コロプレス図などもフリーソフトで作ることができるので、感覚的に把握できる地図を利用しない手はないと思います。
数字の羅列を視覚化するための引き出しを少しずつ増やす方法を具体的に知ることができました。
2021年06月01日
「Kiss Kiss」
ロアルド・ダール (Roald Dahl) 著
Penguin 出版
おとな向けのロアルド・ダール作品を読んだのはこれが初めてで、児童向け作品のイメージが強かったせいか、この短篇集に感じられる、ある種の怖さが意外に感じられました。背筋の凍る悪夢のような怖さとは違い、怖いけれども見たいという思いに囚われるような怖さです。物語の終わりに待ち受けているであろう、大きく深い落とし穴がどんなものか見てみたいと思わせられます。
以下の 11 篇に共通するのは、結末に至るまでに、極端に非現実的なシチュエーションや表現しにくい違和感が満ちていて、恐れと可笑しみが隣り合わせに感じられることです。
- The Landlady
- William and Mary
- The Way Up To Heaven
- Parson's Pleasure
- Mrs Bixby and the Colonel's Coat
- Royal Jelly
- Georgy Porgy
- Genesis and Catastrophe
- Edward the Conqueror
- Pig
- The Champion of the World
「The Landlady」は、恐ろしい女主人の正体がわかった気がするのに青年の立場からそれを認めたくないという不気味さがあります。「William and Mary」や「The Way Up To Heaven」には、積年の怨みを晴らさんとする妻に恐ろしさを感じるだけでなく、時代背景を考えると妻の気持ちがわかると思った自分も怖くなりました。
「Parson's Pleasure」では、アンティークショップの主人が、アンティークではないと偽って、高価な家具を二束三文で買い取ろうとし、「Mrs Bixby and the Colonel's Coat」では、Bixby 夫人が自身のものとしてが身につけることができないものを夫を騙して堂々と手に入れようとします。いずれも、小賢しく驕った態度が陥る罠の恐ろしさを思い知らされます。
「Royal Jelly」は、養蜂家の父親が乳児にローヤルゼリーを飲ませた話です。食欲のない乳児を心配する母親とローヤルゼリーの価値を過大評価する父親のすれ違いは日常的な不協和音に見えますが、母親の不安が伝わってくるせいで、洗脳されたような父親と乳児の成長が不気味に感じられます。エンディングでは、一気に恐怖の底に落とされたような感覚に襲われました。
「Edward the Conqueror」は、自宅にふらりとやってきた猫が、19 世紀に活躍した作曲家フランツ・リストの生まれ変わりだと信じる妻の話です。彼女の逞しい想像力に、物語の結末が気になって仕方がなかったのですが、個性のかけらも見いだせない夫の対応を結末として見せられ、一気に現実に引き戻されました。
非現実的な設定で始まるものの、一種の幸運が続く「Pig」は、若者がしたたかな大人たちに財産をむしり取られるあたりから雲行きが怪しくなり、結末では宮沢賢治の「注文の多い料理店」が思い出されました。
「The Champion of the World」は、悪事を働いたふたりにどんな結末が待ち受けているのかと恐る恐る読み進めたのに、意外なことに、悪事は滑稽なかたちで暴露されることになります。
これらの作品で、まったく理解できなかったのが、「Georgy Porgy」と「Genesis and Catastrophe」です。「Georgy Porgy」では、当事者の視点と外からの視点の乖離が描かれているのですが、神経を病んだ人の妄想をどう受けとめていいのか、わたしにはわかりませんでした。
「Genesis and Catastrophe」では、世界的大惨事を引き起こした、実在の人物の生まれが描かれています。第四子として生まれた彼の母親は、それまでに三人の子たちを亡くしているために、その子も死んでしまうのではないかと極度の不安に襲われています。読者は、その母親の痛みに寄り添いながら読み進めるでしょうが、中盤になって、その子が誰なのか判明します。その場面で、作者がどういった反応を読者に期待していたのか、わたしにはわかりませんでした。読者に、どう反応していいかわからない嫌な気持ちにさせたかったのでしょうか。
表紙に 'Unnerving bedtime stories, subtle, proficient, hair-raising and done to a turn' San Francisco Chronicle とあります。
不安を煽る絶妙な匙加減ということでしょうか。心配性のきらいがあるわたしには、「Charlie and the Chocolate Factory」のような作品のほうが向いている気がしました。