2021年09月30日

「カンマの女王」

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メアリ・ノリス (Mary Norris) 著
有好 宏文 訳
柏書房 出版

『ニューヨーカー』の校正係が書いたこの本の原題「Between You & Me: Confessions of a Comma Queen」の Comma Queen とは、訳者あとがきによると、『ドラマ・クィーン』(ドラマのヒロインにでもなったかのような気分でささいなことに大騒ぎしてみせるひと) のもじりで、『カンマというささいなものに大騒ぎする困ったひと』という雰囲気があるそうです。

 しかも、この原書はベストセラーとなり、2 冊目の「Greek to Me: Adventures of the Comma Queen」もすでに出版されているそうです。注目すべきは、1 冊目の a Comma Queen が the Comma Queen になっている点です。この the Comma Queen は、TED トークにも登壇していて、この本でも垣間見ることができるユーモアのセンスを披露しています。

 読み始めたとき、この本を日本語にして世に送りだすという決断は難しいものだったに違いないと思いました。日本語を母語とする読者にとって、わからないことが多いに違いないと直感的に思ったからです。

 実際、句読記号のひとつダッシュの項で『ダッシュに頼ると息が切れることもあるけれど、涙を誘うこともある』と書かれてありますが、わたし自身は理解できませんでした。具体例として、ジャクリーン・ケネディが夫のケネディ大統領が暗殺された後、リチャード・ニクソンのお悔やみの手紙に対して出した、ダッシュを多用した返事があげられています。著者は、それを規則通りに整えたダッシュのほとんどないバージョンと読み比べられるようにしていますが、両方読んでみても、前者が頻繁にダッシュを使っているということは認識できても、涙は誘われませんでした。

 ただ、意外なことに、英語に対する理解が深められて良かったと思う点もかなりありました。特に印象的だったのは、次の 3 点です。

 ひとつめは、イギリス英語と異なるスペルを始めたアメリカ人の話です。わたしの勤務先の親会社は米国企業なので、ドキュメント類のスペルはアメリカ英語で統一するよう言われています。その確認のために頻繁に辞書をひきながら、どうしてこう微妙に米英で違いがあるのかと疑問に思うことがありました。その答えは、辞書編纂者ノア・ウェブスターにありました。辞書の仕事を始める前に教師をしていた彼は、生徒たちの発音と綴りのひどさに驚き、『ブルー・バック・スペラー』という通称で名を馳せたスペリング本を編纂しました。それらの経験をもとに、辞書を編纂する際、発音に即したスペリングを試みましたが、結果的には大々的なスペリング改革には至らなかったようです。黙字などを排し、発音と表記を一致させようという試みは失敗したと言えるでしょうが、日本の言文一致運動を彷彿させられました。

 ふたつめは、単数の代名詞として、they、their、them を使う問題です。英語には、person、anyone、everyone、no one などの性別を問わない語があるいっぽう、性別を問わない単数人称代名詞がありません。その結果、he、his、him を使ってきたわけですが、その方法が批判されるようになり、they、their、them が使われる場面をよく見かけるようになりました。日本語が母語で文法を頼りに英語を書いている身としては、こういう運用はやめてほしいと不満に思っていました。ただ、これまでの紆余曲折が説明されているのを読むと気が遠くなりました。he-she、she-he、s/he、he/she、s/he/it などの一般的な対応だけでなく、A・A・ミルンの heesh <カレジョ> 案のようにまったく新しいジェンダー・ニュートラルな三人称単数代名詞案も考えだされ、ほかにも hse 案、ip、ips 案 (1884 年)、ha、hez、hem 案 (1927 年) shi、shis、shim 案 (1934 年)、himorher 案 (1935 年) など、数々の提案があったそうです。ひねりだされた案がことごとく消え去る運命にあったのは、代名詞は言語に深く埋めこまれているからだと、著者は言います。苦しんだ末に they、their、them が使われていると思うと、これまでとは違った目で見ることができそうです。

 最後は、タイトルにある『Between You & Me』です。この目的格の代わりに主格を使い『Between You & I』と言ってしまう間違いが多いと著者は指摘し、『主格の代名詞のほうがよりフォーマルだと思われている』のではないかと推察しています。目的格の代名詞の代わりに主格を使ってしまう過ちの例として、大統領をつとめていたバラク・オバマでさえ a very personal decision for Michelle and I <ミシェルとわたしにとってとても個人的な決断> とか graciously invited Michelle and I <ミシェルとわたしをご招待いただき> と言ったと書かれてあります。日本語では、公の場において和語よりも漢語を使おうとする意識があると「あたらしい教科書〈3〉ことば」に書かれてありましたが、それに似たフォーマルに話したい欲求があるのかもしれません。

 そんな細かいことを気にしなくても……と思うこともありましたが、期待以上に楽しめた本でした。
posted by 作楽 at 21:00| Comment(0) | 和書(英語/翻訳) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする