2022年01月25日
「老後の資金がありません」
垣谷 美雨 著
中央公論新社 出版
社会問題をテーマに次々と小説を発表している作家が老後資金の問題を書いたものです。
結婚間近の長女さやかと就職間近の長男勇人と業績が悪化している建設会社で働く夫章と暮らす篤子の視点で物語は進みます。パートタイムの仕事をしながら忙しく家事をこなす篤子は、あちこちのしがらみに絡めとられ、不運が重なったせいで、夫から管理を丸投げされている貯金が減っていくなか、先行きの生活に不安を覚えるようになります。
老後 2000 万円問題が大々的にマスメディアを賑わしただけに、篤子が金銭面で老後の生活に不安を感じる状況は身につまされます。しかし、物語は、あることをきっかけに思わぬ方向に進みはじめます。裕福な暮らしをする義妹に対し、お金がないことをきっぱりと告げ、毎月 9 万円という義母芳子への仕送りを止める代わりに芳子と同居すると宣言したのです。
長年和菓子屋を切り盛りしてきた芳子は、心配性の篤子よりも変化への適応力が高いというか、ものごとに動じないというか、篤子とは違ったタイプで、意外な同居生活が始まります。
常々思っていますが、経済的な問題に陥った場合、貧すれば鈍するで普段以上に自分のことしか見えなくなる人たちのなんと多いことか。そうならず、心を失わずにいれば道は開けますし、そのことをこの本を読んであらためて思いました。篤子たちが心を失わず、切り開いた道は清々しく、読後感のよい話だったと思います。
現実社会は、家族に対してさえ思いやりをもてない人たちで溢れているだけに、この本を読んでいるあいだは、温かい気持ちになれた気がします。また、日常のこまかなことにリアリティが感じられ点、途中までは先々の展開が易々と予想できたのに途中から先が読めなくなった点も楽しめました。
2022年01月24日
「マザーグースのミステリー」
藤野 紀男 著
ミネルヴァ書房 出版
マザーグースの歌を下敷きにした部分が「鏡の国のアリス」にあって、少しマザーグースを学びたいと思い、手にした本です。
タイトルにある『ミステリー』を見て、マザーグースには色々謎があると想像していたのですが、謎というほどのことは、あまり載っていませんでした。たとえば、誤訳があることを著者はミステリーと呼んでいますが、1 世紀近く前、英語を読める人が少なく、辞書も充実していなかった当時、日本語に訳されたものに今より多く誤訳が見つかっても不思議だとは思えません。
ただ、マザーグースを通して当時の暮らしを学ぶことができました。印象に残った 2 点のうちのひとつは、羊毛の輸出税やエンクロージャ― (領主や地主が貸してあった耕地や農民の共有地を柵などで囲い込んで、羊牧場化してしまうこと) が招いた庶民の苦労が唄われているものです。
Baa, baa, black sheep,
Have you any wool?
Yes, sir, yes, sir,
Three bags full;
One for the mater,
And one for the dame,
And one for the little boy
Who lives down the lane.
著者による訳は次のとおりです。
メェー メェー 黒羊さん
羊毛を持っていますか?
ハイ ハイ もっていますよ
3 つの袋にいっぱいにね
1 つの袋はご主人に
もう 1 つの袋は奥様に
そして残りの 1 つの袋は
路地の先に住んでいる坊やにね
the mater が国王、the dame が裕福な貴族階級、the little boy が一般庶民を指しています。集成本のなかには、一般庶民がさらに苦しんでいるバージョンが収められているものがあり、その場合、最後の 2 行が次のようになっています。
But none for the little boy
Who cries in the lane.
路地で泣いている坊やには
何にもやらないよ
この唄に対し、著者がミステリーと呼んでいるのは、これが羊に課された輸出税 (約 67% という高率) を唄ったものか、エンクロージャ―を唄ったものか、はっきりしない点ですが、輸出税を唄ったものと著者は考えているようです。
もうひとつは、妻がモノのように売り買いされる唄です。
When I was a little boy
I lived by myself,
And all the bread and cheese I got
I laid upon a shelf;
The rats and the mice they made
such a strife,
I had to go to London and
buy me a wife.
The streets were so broad and
the lanes were so narrow,
I was forced to bring my wife home
in a wheelbarrow.
The wheelbarrow broke and
my wife had a fall,
Farewell wheelbarrow,
little wife and all.
僕がまだ小さかったころ
一人きりで住んでいた
持っているかぎりのパンとチーズを
棚の上に並べといた
ネズミたちの争いが余りに
ひどすぎたので
妻を買うためにロンドンへ
行かなくてはならなかった
街路は広すぎたし
路地は狭すぎたので
妻を手押し一輪車に乗せて家まで
連れ帰らなければならなかった
手押し一輪車は壊れ
妻は落っこちた
手押し一輪車も妻も
みんなさようなら
妻売りはイギリス結婚制度史にあった習俗で、文献に残る記録だけでも 17 世紀から 20 世紀初期まで見つかっているそうです。教会が離婚を禁止していた時代に民間で始められた離婚獲得の方法だろうという人もいるそうです。それにしても、唄に残るほど一般的だったとは驚きました。
2022年01月23日
「Bag of Bones」
Stephen King 著
Pocket Books 出版
本作品を書いたスティーヴン・キングのようなベストセラー作家 Michael Noonan が主人公で、36 歳という若さで 34 歳の妻 Johanna を亡くすところから物語は始まります。脳の動脈瘤が破裂して薬局の前で亡くなった妻のバッグからは、家庭用妊娠検査薬が見つかります。亡くなる直前に妻が買い求めたようですが、Michael は、妊娠の可能性を聞かされていませんでした。Noonan 夫妻は、子供が欲しいと思っていて、もし女の子なら Kia (season's beginning を意味するアフリカの名前) にしようと考えていたくらいなので、妻の行動は不可解に見えます。
しかし、そこはホラー作家スティーヴン・キングの作品ですから、妻に愛人がいたというメロドラマの展開にはなりません。Michael は、妻の死後、スランプに陥り、まったく書けないまま 4 年ほどの歳月が流れます。そのあいだ、頻繁に気味の悪い夢に見舞われ、書こうとすると発作のような苦しみに襲われるなか、ほんの少しずつですが霊の存在を信じるようになっていきます。
そして、書き溜めておいた作品も底をつき、年 1 冊ペースの新作発表を維持するのが難しくなり、Sara Laughs と呼ばれる、湖のそばに建つ別荘で当分暮らすことにしました。この別荘は、1900 年頃から建つ歴史ある建物で、幽霊の存在が暗示されても、なんとなく受け入れてしまうような描かれ方をしています。
別荘に滞在するようになってまもなく、Michael にとって大きな出来事がふたつ起こります。ひとつは、Kyra という 3 歳の女の子を育てるシングルマザー Mattie と知り合って好意を抱くようになり、その親子を支援したいと思うようになります。Mattie は、亡き夫の父親 Max Devore に娘の親権を奪われそうになっていました。Max は莫大な資産を有する実業家で、Mattie は、安定した職に就く機会に恵まれず、トレーラーで暮らしていたため、不利な状況にありました。もうひとつは、妻が Michael には内緒で別荘に来て、男性と行動を共にしたり、プラスチック製のフクロウを購入したり、Michael の先祖について調べたりしていたことが判明します。
親権の奪い合いといった、地位や金銭がものをいう現実的な闘いが進行するいっぽう、Michael は、心霊現象としか言いあらわせないような不思議な経験を重ねていきながら、妻の不可解な行動の理由を調べていきます。読んでいて、物語が裁判沙汰へと続くのか、ホラーに向かっているのか、ロマンスに発展するのかが見通せず、目が離せなくなりました。そしてついに、タイトルの Bag of Bones へと辿りついたとき、この物語が描いているのは、幽霊といった目に見えない存在そのものではなく、社会問題なのではないかという印象を受けました。
親から子へと社会的な立ち位置や生き様が引き継がれたり、狭いコミュニティでは同調圧力に与しやすくなったりする傾向があるのは、万国共通かもしれないと思いました。また、白人だから、男性だから、社会的地位があるから、財産があるから、そういったことを理由に、自らが偉大だと勘違いした者が他者を踏みにじったとき、その虐げられた者の思いには行き場がないということも、どこの土地でも変わりはないのだと痛感しました。
2022年01月02日
「瞳の奥に」
サラ・ピンバラ (Sarah Pinborough) 著
佐々木 紀子 訳
扶桑社 出版
『かつて』と『その後』と『現在』の 3 つの時点が最初に描かれ、その後、『かつて』と『現在』を行き来しながら物語は展開し、最後の最後に『その後』がなんの場面だったのかが理解できるようになっています。おもな登場人物は 3 人で、デヴィッドとアデルのマーティン夫妻とシングルマザーのルイーズ・バーンズリーです。このうち、物語の声となるのはアデルとルイーズで、最後の最後にアデルが何者なのかを明かす第 3 の声が登場します。
夫婦は円満とは言い難く、精神科医のデヴィッドは、自らの秘書ルイーズと不倫していて、そのいっぽうでルイーズは、アデルと親しい友人関係にあります。メロドラマの様相を呈する状況ですが、読み始めてすぐサスペンスの要素に気づかされます。アデルは、ルイーズを意のままに操って何か良からぬことを画策しているのです。また、デヴィッドは、夫婦の結婚に関する秘密をルイーズに知られまいと必死に隠し、ルイーズは、アデルの思惑に気づくことなく、マーティン夫妻が隠していることが気になって仕方ありません。そんななか、それぞれの過去や関係性が徐々に明かされていきます。
しかし、後半になってから、これはただのサスペンスではなく、超常現象も物語の要素として鍵になるのではないかと思わされます。夜驚症のせいで体調不調に陥っているルイーズに対してアデルは、かつて夜驚症に悩まされていた経験をもとに、克服法を教えます。その結果、ルイーズは、夢を自在にコントロールできると思うに至ります。
夜驚症は、幼児・小児ではそう珍しくはありませんが、おとなにとっては珍しい症状です。それなのに、子供でもないアデルやルイーズが夜驚症を接点として、体験を共有していくことに作者の強い作為が感じられ、なんとなく非科学的な後味の悪い結末を迎えることが読み取れました。
そして結末までいくばくかもない段階になって、超常現象が起こり、それまで辻褄が合わないと感じていたことに合点がいきます。物語の終わりに、アデルが何を画策していたのかが明かされ、予想どおり後味の悪い事実が判明します。
驚く結末ではありましたが、超常現象に対して抵抗があるので、解明される謎は、読者に想像の余地を残しておいてほしかったと感じ、あまり意外性を楽しめませんでした。
2022年01月01日
「金融デジタライゼーションのすべて」
株式会社日本総合研究所先端技術ラボ/Ridgelinez株式会社 Financial Services 編/著
きんざい 出版
書籍名に騙されてしまったように感じました。金融業界のデジタル化については、ほんの一部で、ほとんどは IT 業界全般の話でした。それも、IT 業界の情報をそれなりにチェックしていれば、目新しい情報は見つけられないレベルです。
ただ、IT を利用した新しい金融サービスをいくつか知ることができ、新しい気づきを得ることができました。たとえば、@連携範囲の拡大、Aシステム機能提供者の変化、Bローカル事情などがあげられます。
@では、API などを活用したオープン化により連携可能範囲が広がるにつれ、金融機関が提供できるものも広がっていくと感じました。たとえば、車や住宅の購入支援 (ローン需要の掘り起こし) です。
米国大手金融機関 Capital One が 2018 年に始めたサービスはその一例です。街なかにある自動車にスマホのカメラでピントを合わせると、その自動車の車種を特定し、価格帯やディーラーでの販売状況、ローンを借りた場合の月々の支払いの額等がスマートフォンの画面に AR 技術を用いて表示されるようになっていて、そこでローンの仮審査を実行することも可能になっています。
仕組みは、次のようになっています。まず、スマホのカメラでとらえた自動車の車種識別は、iOS 端末では Apple の機械学習フレームワーク『CoreML』、Android 端末では Google の機械学習ソフトウェアライブラリ『Tensorflow』を用いて開発された機械学習モデルで実行されます。次に、識別された車種をもとに、Capital One が独自開発したアルゴリズムにより、全国 12,000 以上のディーラーから収集した 300 万台以上の自動車販売状況のデータベースから、自動車の価格や融資条件が算出されます。最後に、AR での情報出力には、iOS 端末では Apple の SDK「ARKit」、Android 端末では Google の SDK「AR Core」が使われています。
同様に、オーストラリアの Commonwealth Bank of Australia は、住宅にスマートフォンカメラをかざすことで価格や住宅ローン情報を表示する住宅ローン版アプリを提供しています。
Aでは、金融サービスに関係するシステムを提供するのは、IT ベンダーに限らなくなってきていると思いました。たとえば、セブン銀行は、自らが開発した金融システムをその差別化を武器に外部に有償提供し、収益源の多角化を図っているとのことでした。
Bでは、自然言語や法規制などがあげられます。Bank of America は、自行モバイルアプリに音声によって情報入力、指示可能な独自の AI アシスタント『Erica』を実装し、顧客からの情報照会や顧客へのアドバイスに活用しています。顧客のフランクな口語での問いかけに柔軟に回答できる高度な分析力を提供したことから、リリースされておよそ 1 年で、モバイルアプリユーザーの 25% が AI アシスタントを利用しているそうです。こういった自然言語に関係する部分は、やはり当該言語に長けた開発者の存在が必要で、海外のプロダクトを活用するといったことは難しい気がしました。
また、日本でいう金融商品取引法/資金決済法や犯罪収益移転防止法などの法規制は、国や地域によって違いがあり、金融サービスが法律と密接に関係していることから、やはり海外のプロダクトを簡単に使えない面がある気がしました。