
角田 光代 著
朝日新聞出版 出版
主人公は、まもなく 3 歳になろうとする娘と夫の陽一郎と暮らす専業主婦の里沙子。彼女が、世間を騒がせた乳幼児虐待事件の補充裁判員になるところから物語が始まります。事件の被告人である水穂は、生後 8 か月の娘を浴槽に落として溺死させた罪に問われていました。
里沙子は、裁判員のひとりとして客観的に水穂を見ようと努めますが、証言の食い違いが見受けられ、家庭という密室のなかの状況は、そう簡単には把握できません。さまざまな角度から仮説を立てて考えていくうち、自分と近い家族構成に身をおく水穂に、知らず知らず自分自身を見ていくようになります。そして結果的に、自分と自分を取り巻く環境についても客観視するようになり、彼女なりの結論に達します。
そんな彼女のことばの一部に驚かされました。
++++++++++相手が劣っていると言い続けて敢えて傷つけ、優れている自分のそばにいるほうが良いと相手に思わせるのは、自己中心的な行ないであって、そこに相手に対する愛など微塵も存在しないと、わたしには見えました。つまり、幸せな家庭のなかの自分、従順な家族に頼られる自分、そういった理想に近い自分像を維持するために、自分とは別の人格をもつ者を利用しているように感じたのです。
憎しみではない、愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから。それがあの母親の、娘の愛しかただった。
それなら、陽一郎もそうなのかもしれない。意味もなく、目的もなく、いつのまにか抱いていた憎しみだけで妻をおとしめ、傷つけていたわけではない。陽一郎もまた、そういう愛しかたしか知らないのだ――。
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なぜ、愛ゆえにおとしめられたという結論に里沙子が至るよう描かれたのでしょうか。モラルハラスメントから逃れられないケースでは、里沙子のように愛されていると誤解することが多いのでしょうか。里沙子が自分の状況を客観的に見つめなおしていくプロセスに惹きこまれたあとだったので余計に腑に落ちませんでした。