2023年03月31日

「ロゴスの市」

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乙川 優三郎 著
徳間書店 出版

 漠然とながら、人が言語と向き合う姿勢とその生き方は互いに強く影響を与えあうのかもしれないと思いました。

 翻訳を生業として日々机に向かって過ごす男と同時通訳の仕事に従事し世界中を飛び回っている女との 30 年以上にわたる恋愛が軸のひとつになっている作品です。タイトルの『ロゴス』は、ここでは主に、『理性』をつなぐ役割の『ことば』を意味し、同じ言語を扱う仕事でありながら、翻訳と同時通訳のあいだにある、さまざまな違いを見てとれる内容になっています。また、語り手である男の仕事、翻訳は、抽象的でありながら、その仕事の難しさが同時にやりがいになっていることなど、知らない世界を窺い知ることができます。

 女のほうは、自分と男のことを『せっかちとのんびり』と形容していて、それがこの小説の核のようなものになっています。刻々と流れることばを瞬時に捉えて違う言語にする同時通訳と、それに比べると考える時間をもてる翻訳の仕事の違いが、それぞれの生き方にもあらわれているように思えるのです。

 いまの世代の子たちなら『親ガチャの勝ち組』といえる男の立場と、そうではない女の境遇を比べると、何かと急ぎ、焦り、たったひとりで決断して行動に移していくようになった女と、そんな彼女をずっと目で追いながら、思いをことばや行動であらわせずにいる男の対照が浮かびあがります。

 ふたりの関係の終わりを告げる手紙は、時代背景から察せられる部分と、ふたりが親密になった頃のできごとで暗示された部分から成り立っていて、ふたりの軌跡を確かめる内容になっています。わたしには、予定調和ともいえる終わり方に見えました。
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2023年03月30日

「日本語で一番大事なもの」

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大野 晋/丸谷 才一 著
中央公論新社 出版

 この本には、和歌の助詞・助動詞を主テーマにした、大野氏と丸谷氏の対談内容が収められています。助詞・助動詞は、巻末の解説において、『名詞、動詞の語根のように、それ自体で独立の意味を表現しうる語にくらべれば、重要性において遥かに劣ると思われる従属的な語が、詩歌の創造において決定的な位置を占めているということは、日本語という言語のもつ大きな特徴を示すものといわねばならない』と評されています。

 大野氏は、助詞・助動詞が短くも大きな役割を担っている例として、次の歌をあげています。

 人知れず絶えなましかばわびつつも無き名ぞとだに言はましものを (伊勢)

『あたしたちの恋を人に知られなかったならば、悲しいことは悲しいけれど、でも、その話は浮き名もうけですよ、本当はそんなことはありませんでした、と言えたのに』という意味のこの歌で、『だに』というのは、たった 2 文字なのに、『せめて……だけでも』とか、あるいは『譲りに譲ってこれだけでもと思うのに』というニュアンスを担っています。

 ただ、助動詞を正しく捉え、自在に使いこなすのは相当難しかったようです。それは、書を写す際の誤りが、むずかしいところでは散見される事実からも窺い知ることができます。

 大野氏によれば、助動詞の寿命は、600 年とか 700 年ぐらいしかなく、それを過ぎると、なんとなく別のことばに変わってしまい、のちの時代では意味がわからなくなるそうです。三大和歌集をもとに考えてみると、奈良時代 (710 年 〜 784 年) に編纂された万葉集、平安時代 (794 年頃 〜 1185 年頃) の古今和歌集、鎌倉時代 (1185 年頃 〜 1333 年) の新古今和歌集をただひとつの時代の知識で読むことは難しいことになります。

 そういった助詞や助動詞の用法の変遷を辿るほか、この対談では、数多くの短歌を例にあげつつ、関係する論文を紹介したり、日本語の文法論について触れたり、多岐にわたる議論がされていますが、わたしに理解できることは、あまりありませんでした。ただ、短歌のおもむきなど、自分が生まれ育った国の文学を解する力がないというのは、寂しいものだと感じました。
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2023年03月13日

「松雪先生は空を飛んだ」

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白石 一文 著
KADOKAWA 出版

 タイトルにあるように、松雪先生が鳥のように空を飛ぶので、ファンタジー要素が入っています。同時に、ミステリーの謎を解くような感覚も味わうことができる作品です。物語は、各章異なる人物の視点で、それぞれ異なる時代背景のなか、群像劇のように主人公不在のまま進みますが、登場人物がお互いに関係していることに気づけば、大きな絵を空間的にも時間的にも小出しに見せられていることがわかるようになっています。

 最終的には、松雪先生が運営していた私塾『高麗 (こま) 塾』の最終講話 (1950 年 4 月 21 日) から現在 (2022 年) までに起こったできごとが、最終講話を受けた人々とその関係者を中心に明らかにされます。松雪先生の最終講話は、どんな内容だったのか、また、そのあとなぜ松雪先生は、生徒たちの前から姿を消したのか、そういった謎を追って読み進めましたが、結末には落胆させられました。自分が良いと考えることは誰にとっても良いことであるという考えを押しつけ、それが実現すれば、まるで夢の世界が到来したかのように考える登場人物が、少し気味が悪く感じられたのです。

 徐々に全体像が見えてくるプロセスを楽しみながら読めましたが、目の前の霧が晴れたと思ったときに見えた結末は、子ども向けのおとぎ話のようで、わたしの好みではありませんでした。
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2023年03月12日

「ののはな通信」

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三浦 しをん 著
KADOKAWA 出版

 久しぶりに書簡小説を読みました。「錦繍 (きんしゅう)」などとは時代背景が違って、手紙とメールの両方で書簡が交わされています。1984 年の春、高校 2 年生だった野々原茜と牧田はなのあいだでやりとりが始まって 1989 年に中断されるまでは手紙でしたが、2010 年に再開されて 2011 年に終わるまではメールです。その変遷に時代の流れを感じました。

 同様に時代の流れを感じたのは、昭和のころ、LGBTQ などということばがなかったことです。書簡を交わすふたりは、高校生時代にお互い『つきあっている』と思っていましたが、確信がもてずにいました。恋人同士とは、男女のカップルを指すものと思われていた時代ですから、不思議ではありません。

 ふたりの書簡を読むにつれ、恋とは、愛とは何か、考えさせられました。恋愛の先に結婚と生殖 (子をもつこと) が既定路線としてあったことが、恋や愛を複雑にし、LGBTQ の権利を当然とみなせずにいたのかもしれません。

 愛は、何も恋人たちだけのものではありません。この本のなかで茜は、はなに向けて『心のなかの本当のあなた、つまり他者と、知識と思考と想像力のすべてを駆使して、対話するよう努める』と書いています。その気持ちは愛であり、性別は関係ないように思います。わたしたちは、過去から綿々と受け継がれてきた『恋』や『愛』という定義やラベルを疑うことなく受けいれてきた気がしますが、立ち止まって一度疑ってみてもいいかもしれません。

 また、茜は、『差異を乗り越え、認め合い、仲良くすることは、個人と個人のあいだでは比較的容易なのに、集団になるとなぜ、暴力という表現になってしまうことが多いんだろう』と疑問を抱いています。愛の対象は恋人や家族に限られるかのように線引きする傾向を感じますが、その線引きの必要性を各々が問うてみてもいいかもしれません。

 これまでの価値観の根っこの部分を見直してみることは大切だと思いました。