
ミヒャエル・エンデ (Michael Ende) 著
上田 真而子/佐藤 真理子 訳
岩波書店 出版
岩波少年文庫なので、児童向け書籍と思ってしまいがちですが、使われていることばといい、壮大な世界観といい、主人公が自分を見失ってしまう過程といい、おとなが読んでも楽しめるよう書かれていると、わたしは思います。
主人公のバスチアン・バルタザール・ブックスは、落第経験があり、運動も苦手で、誰からも注目されず、空想の世界に逃避しがちな小学生です。父でさえ自分の存在を疎ましく思っているのではないかと思っている彼が、『はてしない物語』という本の冒険譚を楽しみ自分をヒーローと考えるようになるまでが物語の前半で、自ら冒険するのが物語の後半です。
バスチアンは、『はてしない物語』を読み始めてすぐ、心のなかでこう呟きます。「ごくありきたりの人たちの、ごくありきたりの一生の、ごくありきたりの事がらが、不平たらたら書いてあるような本は、きらいだった。そういうことは現実にであうことで十分だった。そのうえ何を今さら読む必要があるだろう? まして、何か教訓をたれようという意図に気づくと、腹がたった。事実、その種の本というのは、それがはっきりわかるかぼやかしてあるかは別として、常に読者をどうかしようという意図で書かれているものだ」
訳者あとがきでは、作家が 1986 年の講演で話した内容が紹介されています。「私が書くのは遊びだ。無目的の遊び、これが現代に最も欠けているもの。私はこれを取り戻したい」
物語の前半、物語が描く世界にはファンタージエンを救うという、とてもわかりやすい目的がありました。だからわたしも、教訓などない胸高鳴る冒険を楽しんだバスチアンと似たような感覚で読み進められました。しかし、その目的が達成された途端、冒険そのものに大きな違いがないにも関わらず、わたしは、バスチアンがファンタージエンを救ったあと、どこに向かうのか、次々と欲求を抱き物語を作り続けるバスチアンを待ち受けているのが何か、不安を感じました。『目的』がない旅がそう感じさせたのかもしれません。
バスチアンがそうして冒険を重ねていた (無目的という意味では、彷徨っていた) とき、そばにいて、バスチアンには帰る場所があるはずだと信じた人がいました。友だちです。バスチアンが元の居場所に帰れるよう自ら責任を引き受けた仲間です。そこには、目的も損得もありませんでした。『目的』や『損得』に囚われ、目的はなくとも価値のある何かを失ったのではないかと感じるとき、こういう本を読むのもいいと思いました。