2023年10月31日
「書記バートルビー/漂流船」
ハーマン・メルヴィル (Herman Melville) 著
光文社 出版
「おいしい資本主義」の著者は、「書記バートルビー」は、『現代の労働問題の根源を、予言的に嗅ぎつけた作品』だと評し、その導入部分を紹介したあと、『このあとどうなるかは、ぜひ小説そのもので確かめてほしい』と書いていました。バートルビーは、『書記として決められた自分の仕事以外の、ちょっとした雑用、使い走りだったりなんだったりを頼むと、礼儀正しく、しかしきっぱりと、断って』しまう人物で、『他人と同じようにふるまうことを、やんわりとだがしっかり要請される』と著者が述べる、現代の状況に流されているわたしから見て、羨ましいような羨ましくないような人物像で、その行く末を見たくなって読んだのです。
メルヴィルは、何かしら思うところがあって、これらの作品を書いたに違いないのですが、何を思って書いたのかは判然としません。訳者あとがきで、「漂流船」はこう説明されています。『メルヴィルはこの作品の底流にある奴隷制批判を露骨に描写することは巧妙に避けている。なぜなら黒人に対する根強い差別意識を持つ大衆が広範に存在する中で、文学作品に政治的メッセージをダイレクトに表出することは、反発されるだけではなく、危険でもあることがあらかじめ想定されたからである。』
「書記バートルビー」は 1853 年 (メルヴィル 34 歳の年)、「漂流船」は 1856 年 (同 37 歳の年) の発表です。奴隷制批判を大っぴらにできない時代だったことは間違いありません。だからこそ、「漂流船」は、奴隷制に疑問を抱かない多数派のなかのひとり、アメイサ・デラーノ船長の視点で進み、かつ、人種差別を是とする彼があたかも善人であるかのように語られているのかもしれません。
構図は「書記バートルビー」も同じです。バートルビーの雇用者の視点で顛末が語られ、被雇用者に対する理解が深く寛大な人物かのように描かれています。具体的には、雇用者は、『1 フォリオ (百語) につき 4 セントの一般的な歩合給で写字の仕事』をバートルビーにさせるほか、一般的な慣習をもとに、写字したものを読み合わせたり、郵便局まで使いに出たりする雑務も指示し、何度か指示に逆らわれても、ある程度は拒絶を受け入れ、自らを寛大に見せます。しかし、最終的にバートルビーは追いこまれていきます。つまり、慣習を正とし、バートルビーを追いこむ雇用者に対し、メルヴィルは批判的だったのかもしれません。
これは、現代日本におけるサービス残業に似ているように思えます。雇用され続けるためにはサービス残業をしなければならない環境というのは現存します。そして、ほかの被雇用者がサービス残業を続ける限り、ひとりだけ抗うことができないのも同じです。バートルビーは、どうすればよかったのでしょうか。なぜ雑務を拒絶するのか説明すれば、そこで生意気だというレッテルが貼られてしまったのではないかと思います。逃げればよかったのかもしれませんが、逃げる先がなかったのかもしれません。
「漂流船」のような人種差別は少しずつですが改善されてきました。しかし、「書記バートルビー」に描かれるような問題は、闘ってなんとかなる場合ばかりではありません。共倒れになるリスクを孕み、結果的に逃げる先を探さざるを得なくなる可能性もあります。簡単に解決できない問題だけに、これらの作品で提示されている問題に古さは感じられませんでした。
「書記バートルビー」を読んで頭に浮かんだのは、数十年ぶりと言われる類のストライキが複数の業界で起こっていることです。ただ、バートルビー自身は、何を問題だと思っているのか一切語らず、ただ仕事を断るのみです。要求を連ねるストライキと違って、バートルビーが語らないゆえ、いつまでも気になってしまいます。そういう意味では、作品として成功しているのかもしれません。
2023年10月19日
「BNPL 後払い決済の最前線」
安留 義孝 著
金融財政事情研究会 出版
BNPL (後払い決済) サービスが広く紹介されているうえ、比較的新しい数字を見ることができ、参考になりました。また、わたしが自ら住む国の状況さえ、正しく認識できていなかったことにも気づかされました。
ここでの BNPL は、リアルタイムで取引を審査する後払い決済を指しています。日本で広く使われている後払い、クレジットカードとの違いは、年収や勤務先などの個人の属性データではなく、個々の取引をもとに与信する点です。
この定義にしたがって考えると、自らの経験を忘れていたことに気づかされました。NP 後払いです。サービスを提供するネットプロテクションズは、2000 年設立の企業です。初めて利用する EC サイトから商品が間違いなく届くか不安なときなど、利用していたことを思い出しました。本書によると、2022 年 3 月までに、年間流通金額 3,400 億円、導入企業 7 万社以上、年間ユニークユーザー数は 1,500 万人超まで成長したそうです。
しかし、そういったサービスがあっても、日本は『クレジットカード保有率や利用率が高く、既に様々な「後払い」も普及しているため、海外のように爆発的な BNPL の流行が到来するとは考えにくい』と、著者は述べています。ただわたしは、日本の雇用形態や人口動態の変化を考えると、長期的に見て、日本の状況も変わっていく可能性があると感じました。
そう感じた事例がいくつかあります。たとえば、米国で 2019 年に設立された PayZen は、医療費に特化した BNPL です。PayZen の導入により、医療費の回収率が 23% 向上した医療機関もあるそうです。少子高齢化がどこよりも速く進む日本で、いまの健康保険制度が維持できるはずもなく、手元資金がなくとも治療を受けられる道を用意する必要がでてくるかもしれません。
そのほか、インバウンド需要に関係する事例もありました。シンガポールの Pace や Atom は、日本を含むアジアで広く事業を展開しています。ユーザーは、母国で使っているアプリのまま、旅先の日本でも支払いをすることができます。日本にある店舗がこれらのサービスの加盟店になるメリットは充分にあるように見えます。
国内では、メルカリのグループ会社であるメルペイのメルペイスマート払いが興味深い事例に思えました。与信審査に利用しているのは、メルカリで収集した履歴データです。アカウント作成からの期間、利用規約の遵守度合、メッセージへの返信や評価までの所要日数などの取引状況などを活用しているそうです。つまり、クレジットカードよりも回収率を高められるような優良顧客を見極められるデータをもつ企業が BNPL にビジネスチャンスを見いだすようなことがあるかもしれません。
新たなサービスが生まれる余地がまだまだありそうな金融への興味がさらに湧きました。
2023年10月18日
「おいしい資本主義」
近藤 康太郎 著
河出書房新社 出版
「三行で撃つ <善く、生きる> ための文章塾」や「百冊で耕す <自由に、なる> ための読書術」の著者の本がもっと読んでみたくて選んだものです。著者は、自らの生き方を模索し、『資本主義社会にも足を突っ込みつつ、肝心なところは、ばっくれる』のはどうかと問うています。
この本が出版された 2015 年、著者は、朝日新聞社の記者で、地方への異動を願い出て、長崎県諫早市に赴任していました。全国紙に在籍しながら、1 日に 1 時間だけ農作業をして主食の米を育て、残りはライターとして働くという生き方に臨んだ顛末がこの本に記されています。わたしの目には、自らの身体を使った実験に見えました。
消費者の時間を奪い合ういまの時代、新聞をはじめとする媒体の勝ち目は少なく、書くことを糧とする生活がいつまで続けられるかわからない昨今、書くことにしがみつくため、食糧を自給しながら暮らすという選択肢を検討したようです。社会を変えようとはせず、社会の現実を観察しつつ、実現可能な範囲で自らの生き方を貫くという方向性がわたしには好ましく見えます。
著者は、1963 年生まれで、多少はバブルを経験したであろう世代ですが、『昔の日本人は勤勉だった、ホンダやパナソニックやの、伝説的な日本の経営者が優秀だった、だから経済成長ができた、ということではない。昔も今も日本人は勤勉だし、昔も今も資本家は強欲、経営者はたいして有能じゃない』とも『先進国に生まれようと、もう「成長」という物語は描きようがない』とも書いてあることから、過去の成功を引きずる同世代の人たちが多いなか、現実を生きている印象を受けます。
そんな著者が目指すのが資本主義の『おいしいとこどり』です。自然の恵みを享受して作物を得ながらでも、ライターという仕事を続けるのは、著者にとって『書くことは、もはや生きることと同義になっている』からにほかなりません。また、『労働は悦びの源泉』で、『他人から認められ、自分で自分を認めることができる、「承認」のよすが』であり、『労働だけが、自らを鍛える』とも語っていて、自らのライターという仕事を手放したくない心情が伝わってきます。実際のところ、収入面で仕事を必要とする立場ではないと推察しますが、おそらく、諦めずにいまの時代を生きる道を模索するための実験ではないでしょうか。
生きるための労働、食べるための労働と考えてきたわたしには、自らを鍛える労働というのは新鮮な考え方でした。『資本家のやりたいままに、低賃金で、より解雇しやすく、付加価値を高められないなら低賃金で当然という洗脳』と著者が評する都会の同調圧力にわたしは知らず知らず負けていたのでしょう。承認されるため、自らを鍛えるために働くという選択肢をいまからでも考えられないだろうかとつかの間迷いが生じたくらいです。
価値観が合うのか、この著者の本をもっと読んでみたいと思いました。