
ハーマン・メルヴィル (Herman Melville) 著
光文社 出版
「おいしい資本主義」の著者は、「書記バートルビー」は、『現代の労働問題の根源を、予言的に嗅ぎつけた作品』だと評し、その導入部分を紹介したあと、『このあとどうなるかは、ぜひ小説そのもので確かめてほしい』と書いていました。バートルビーは、『書記として決められた自分の仕事以外の、ちょっとした雑用、使い走りだったりなんだったりを頼むと、礼儀正しく、しかしきっぱりと、断って』しまう人物で、『他人と同じようにふるまうことを、やんわりとだがしっかり要請される』と著者が述べる、現代の状況に流されているわたしから見て、羨ましいような羨ましくないような人物像で、その行く末を見たくなって読んだのです。
メルヴィルは、何かしら思うところがあって、これらの作品を書いたに違いないのですが、何を思って書いたのかは判然としません。訳者あとがきで、「漂流船」はこう説明されています。『メルヴィルはこの作品の底流にある奴隷制批判を露骨に描写することは巧妙に避けている。なぜなら黒人に対する根強い差別意識を持つ大衆が広範に存在する中で、文学作品に政治的メッセージをダイレクトに表出することは、反発されるだけではなく、危険でもあることがあらかじめ想定されたからである。』
「書記バートルビー」は 1853 年 (メルヴィル 34 歳の年)、「漂流船」は 1856 年 (同 37 歳の年) の発表です。奴隷制批判を大っぴらにできない時代だったことは間違いありません。だからこそ、「漂流船」は、奴隷制に疑問を抱かない多数派のなかのひとり、アメイサ・デラーノ船長の視点で進み、かつ、人種差別を是とする彼があたかも善人であるかのように語られているのかもしれません。
構図は「書記バートルビー」も同じです。バートルビーの雇用者の視点で顛末が語られ、被雇用者に対する理解が深く寛大な人物かのように描かれています。具体的には、雇用者は、『1 フォリオ (百語) につき 4 セントの一般的な歩合給で写字の仕事』をバートルビーにさせるほか、一般的な慣習をもとに、写字したものを読み合わせたり、郵便局まで使いに出たりする雑務も指示し、何度か指示に逆らわれても、ある程度は拒絶を受け入れ、自らを寛大に見せます。しかし、最終的にバートルビーは追いこまれていきます。つまり、慣習を正とし、バートルビーを追いこむ雇用者に対し、メルヴィルは批判的だったのかもしれません。
これは、現代日本におけるサービス残業に似ているように思えます。雇用され続けるためにはサービス残業をしなければならない環境というのは現存します。そして、ほかの被雇用者がサービス残業を続ける限り、ひとりだけ抗うことができないのも同じです。バートルビーは、どうすればよかったのでしょうか。なぜ雑務を拒絶するのか説明すれば、そこで生意気だというレッテルが貼られてしまったのではないかと思います。逃げればよかったのかもしれませんが、逃げる先がなかったのかもしれません。
「漂流船」のような人種差別は少しずつですが改善されてきました。しかし、「書記バートルビー」に描かれるような問題は、闘ってなんとかなる場合ばかりではありません。共倒れになるリスクを孕み、結果的に逃げる先を探さざるを得なくなる可能性もあります。簡単に解決できない問題だけに、これらの作品で提示されている問題に古さは感じられませんでした。
「書記バートルビー」を読んで頭に浮かんだのは、数十年ぶりと言われる類のストライキが複数の業界で起こっていることです。ただ、バートルビー自身は、何を問題だと思っているのか一切語らず、ただ仕事を断るのみです。要求を連ねるストライキと違って、バートルビーが語らないゆえ、いつまでも気になってしまいます。そういう意味では、作品として成功しているのかもしれません。