2024年08月31日

「水族館飼育員のキッカイな日常」

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なんかの菌 著
さくら舎 出版

 水族館で飼育員をしていた著者の体験が紹介されています。この本で知ったのですが、水族館は、博物館法という法律に定めのある博物館にあたるそうです。美術館などの学芸員になるのは狭き門のようですが、水族館も例外ではなく、競争率の高さは博物館全般に当てはまるようです。

 そんな狭き門を叩いて潜り抜けたものの、待っていたのは体力も必要な仕事だったようです。著者の経験では、水族館に泊まることがあっても宿直室がなかったため、キッズスペースや階段の踊り場でブランケットにくるまって寝たり、企画展や特別展などがあれば、睡眠時間を削って準備したりしたそうです。

 著者は、特別展の観覧者の様子を窺い、パネルなどで『渾身のボケがウケているのを確認』し、笑みを浮かべる人柄のようで、この本の、いわゆるヘタウマ 4 コマ漫画も文章もユーモアが溢れていて、思わず笑ってしまいます。

 それだけでなく、水族館の仕事もしっかり伝わってきて、なかでも『同定 (採集や調査の際、その生き物の名前を判別すること)』は、『長年のプロであっても四苦八苦する』ほど難しいというくだりは、生き物相手の仕事だと再認識しました。

 さらには、自らの方言にも気づけました。『ブリの学名は Seriola quinqueradiata とひとつだが、大きさと地域によって名前が変わる。40cm だとイナダ (関東)、ハマチ (関西)、ヤズ (九州)、60cm だとワラサ (関東)、メジロ (関西)、コブリ (九州) などとバラバラで、80cm になるとやっと全国で統一されてブリになる』とありました。ハマチが地域限定の名称だったとは心底驚きました。

 これらのトピックそれぞれを楽しめただけでなく、水族館の裏事情を知って、次から企画展を観るときは、準備してくれた方々が伝えたいことも受けとれるよう心して観ようという気になりました。
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2024年08月30日

「遺したい言葉」

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瀬戸内 寂聴 著
NHK 出版 出版

 著者が「これまで言えなかったこと、書かなかったことを言い遺しておきたいので、その相手をして欲しい」と中村裕映像ディレクターに依頼し、実施に至ったインタビュー (2006-2007 年) がもとになっています。

 2021 年に逝去した著者がどうしても言い遺しておきたかったことを、わたしなりに想像してみました。周囲にどう思われようが、進む道を自ら選んできたこと、その際には決断の結果をすべて背負う覚悟で臨んできたこと、実際に不遇をかこつ結果になっても、反骨精神で乗り越えてきたこと、そのすべてがいまの自分をつくってきたことではないかと推察します。

 それぞれのエピソードは、随所に書かれていますが、始まりは、「男が出来たから出ます」とは言わず、「小説を書きたいから出してください」と言って、家を出たことにあるように思います。死んでも小説家にならなければいけないと考えた著者は、その覚悟のあらわれとして、死に物狂いで書き続けたようです。わたしは、この『覚悟』は、ひとを本気で愛する強さであり、恋愛や愚かさも含めた人間のすべてを書き続ける強さであり、新しいことに挑戦し続ける強さではないかと思います。

 70 歳代で 10 巻におよぶ、源氏物語の現代語訳を書いただけでも快挙だと思いますが、80 歳も近くなってから、舞台にかかわるようになり、オペラの台本を書いています。それぞれ新しいことに挑戦する際「やる以上は、モノにしようと思ってますよ」と語っています。

 名を知られたひとが仕事をするのですから、経済的に裕福になろう、これまでの功績を汚さない範囲でやろうといった打算も少しは必要ではないかと心配になるくらいですが、著者自身は、自らの才能を信じていたのではないでしょうか。『芸術ってものは……文学だけじゃないですよ。もう一に才能、二に才能、三に才能、四に才能だって言うんですよね。四に努力くらい、三に努力くらい言ったらいいかもしれないけれどね、努力して出来るもんじゃない。やっぱりそれはね、持って生まれたものですよ』と言っています。だから、才能を授かった者として、お亡くなりになるまで書いたのかもしれません。

 才能があったから強くなれたのか、強さもひとつの才能なのか、覚悟に至る道筋を知る由もありませんが、その決断力に喝采をおくりたい気持ちになりました。
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2024年08月29日

「Hearts in Atlantis」

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Stephen King 著
Pocket Books 出版

 以下が収められた中短篇連作です。

(1) 1960 Low Men in Yellow Coats
(2) 1966 Hearts in Atlantis
(3) 1983 Blind Willie
(4) 1999 Why We're in Vietnam
(5) 1999 Heavenly Shades of Night Are Falling

 連作としての構成に意外性があったこと、さらに 40 年という長い月日にわたって描かれる、ひとの『気持ち』とか『思い』のようなものに共感できたことが、印象に残りました。

 これらのなかでもっとも長い作品 (1) の登場人物のその後が、続く 4 つの作品に描かれています。(1) の中心にいた Theodore (Ted) Brautigan と Robert (Bobby) Garfield のその後は、掌篇の (5) に短く描かれるだけで、3 つの短篇では Bobby のガールフレンド Carol Gerber や Bobby の親友 John Sullivan、Bobby とは友だちですらなかった Willie Shearman が描かれていて、Ted や Bobby のその後を期待しながら読み進めたわたしは、虚を衝かれました。

 (2) は、ベトナム戦争の時代です。正義だと信じる『思い』は、ひとの数だけあり、自らが信じた正義に向き合うことが難しいこともあり得ると痛感しました。(3) も (4) も過去を引きずっているひとたちの『気持ち』のやり場がないように思えました。

 ただ、ひとりの人間がほかのひとと出合い、別れ、ふたたび接点のできる場面の数々を読むと、ひととひとの結びつきは、一緒に過ごした時間の長さや互いが住む場所の距離にはかかわりなく、『思い』の強さで決まるのだと思いました。違う道を歩むことになり、会うこともないとわかっていても、自分にとって相手が大切なら、思い続けることに意味はある気がします。たとえば、Carol は、元恋人に送った手紙に、自分たちが行先の異なる別の列車に乗っているとしても、ふたりで過ごした時間を忘れることはないと書いています。そのことばには心から共感できました。

 また、Ted は、Green Mile に登場した John Coffey を思わせる、不思議な力をもっています。そんな Ted と Bobby のつながりは、ふたりで過ごした時間の短さや別れを選ばざるを得なかった事情とは関係なく、時間や空間を軽々と超え、Ted は、不思議な力で Bobby に大切なものを届けます。送った Ted の思いも、それを受けとった Bobby の気持ちも、わかった気がしました。

 この作家の、不思議な力そのものではなく、それを通してひとを描いた作品は、わたしにとって読み応えがあります。
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2024年08月03日

「ちいさな言葉」

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俵 万智 著
岩波書店 出版

 何気ない日常を短歌にして一世を風靡した歌人だけあって、ことばを覚えつつある息子が、ほんの束の間使うことばなどを聞き流さず、観察し、エッセイとして残しています。

 たとえば『おんぶ』。著者は、息子をおんぶしたことがなく、おんぶされるほかの子を見た息子は、『背中で抱っこ』してほしいとねだったそうです。でも、『おんぶ』ということばを知ってしまうと、『背中で抱っこ』を使わなくなったそうです。著者は、そんなことばを次のように見ています。
 子どもの言葉に、はっとさせられることは多い。手持ちの言葉が少ないぶん、表現したい気持ちがそこに溢れていて、聞いた大人は楽しくなる。時には楽しくなるだけでなく、驚いたり、考えさせられたりもする。
 このエッセイで、わたしが一番はっとさせられたのは、わたしにはもう残っていない熱量でした。著者は、ことあるごとに息子から『英語でいうとなに?』と尋ねられた時期があったそうです。『英語でいうとなに?』攻撃は、それこそえんえんと続いたようで、著者は、『必要に迫られなくても身につけたいと思うのが、子どもなのかもしれない』と結んでいます。

 英語くらい話せないと困るかもしれないとか、英語ができないと試験に合格できないとか、そういった計算ではなく、自分たちとは違うことばを純粋な好奇心から知りたいと思う気持ちは、わたしにもありました。日本語との違いに気づくたび、日本語への理解も深まり、おもしろくて仕方がなかった頃のことを思い出し、あの熱量はもう戻ってこないのだと気づかされました。わたしも著者同様、考えさせられました。
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2024年08月02日

「名文と悪文 ちょっと上手な文章を書くために」

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 名文と悪文が実例付きで紹介され、優れた文章指南書と悪い文章指南書にも触れられています。著者が悪文とする例では、文章を世に出す仕事の方々、国文学者、新聞記者、大手出版社の編集者、翻訳家などが辛辣に批判されています。ただ、新聞や書籍の読者のひとりとしては、著者の主張には納得できましたし、これまでの疑問が氷解した点もありました。

 一文を短くすると、伝わりやすい簡潔な文章になると信じていたいっぽう、短い文章を読んで、舌足らずのように感じることが多いことに疑問を感じていました。その感覚が正しい可能性もあると思ったのは、著者が『第 8 章 短文信仰を打ち破れ』で、朝日新聞の天声人語をひとつ引用し、次のように解説していたからです。
「昨日も今日もあしたも」「活動の広がりと深さ」「息遣いが聞こえる」「男も女も外国人も」「人間らしさを求める営み」「仲間」「生きている喜び」「新しい自分に出会う」。
 かういふものがつまりは内容空疎な感情語であり、新聞特有の説教臭の漂ふ詠嘆語なのだが、これを立て続けに並べることで、人間愛の讃歌を奏でようといふわけだ。
(中略)
 かうした一種の宗教音楽を支へるものは、この特有の語句に加へ、一句毎に感情を盛り上げて行く短文の連続に他ならない。短文が呪文を導き、呪文は短文を要請する。
 つまり短文は決して文章を簡潔にも歯切れよくもせず、むやみに湿った、感情に絡みつき搦め取る体の、感傷に満ちた「抒情詩」となるのである。

 短文で名文を書くのは難しく、短文にこだわって自己陶酔に終わってしまうのなら、やめるべきという、この助言同様厳しいのが、名文の定義です。丸谷才一のことばを引用しています。
 ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋れてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。

 わたしの器に合ったものが『わたしの名文』だと言われて途方に暮れますが、当然といえば当然です。また、丸谷才一は、『自分が、名文だとそのとき思った。それを熟読玩味して真似ようと努力する。そのうちに文章を見る目が上がるんじゃありませんか』とも言っています。

 悪文も名文も充実した内容でしたが、わたしにとって一番印象的だったのが、『あとがき』です。著者は、この本が新仮名遣ではなく歴史的仮名遣で書かれている理由を語り、『もし私達が、先人の苦闘に対して少しでも謙虚な気持になれるなら、たうてい歴史的仮名遣は棄てることができないはずである』と書いています。歴史的仮名遣を棄てたという意識はわたしにはなく、日本語の歴史に対する無知を思い知りました。著者の薦める『私の国語教室』(福田恒存著)を読んでみたいと思いました。
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