2024年08月02日

「名文と悪文 ちょっと上手な文章を書くために」

20240802「名文と悪文」.png

 名文と悪文が実例付きで紹介され、優れた文章指南書と悪い文章指南書にも触れられています。著者が悪文とする例では、文章を世に出す仕事の方々、国文学者、新聞記者、大手出版社の編集者、翻訳家などが辛辣に批判されています。ただ、新聞や書籍の読者のひとりとしては、著者の主張には納得できましたし、これまでの疑問が氷解した点もありました。

 一文を短くすると、伝わりやすい簡潔な文章になると信じていたいっぽう、短い文章を読んで、舌足らずのように感じることが多いことに疑問を感じていました。その感覚が正しい可能性もあると思ったのは、著者が『第 8 章 短文信仰を打ち破れ』で、朝日新聞の天声人語をひとつ引用し、次のように解説していたからです。
「昨日も今日もあしたも」「活動の広がりと深さ」「息遣いが聞こえる」「男も女も外国人も」「人間らしさを求める営み」「仲間」「生きている喜び」「新しい自分に出会う」。
 かういふものがつまりは内容空疎な感情語であり、新聞特有の説教臭の漂ふ詠嘆語なのだが、これを立て続けに並べることで、人間愛の讃歌を奏でようといふわけだ。
(中略)
 かうした一種の宗教音楽を支へるものは、この特有の語句に加へ、一句毎に感情を盛り上げて行く短文の連続に他ならない。短文が呪文を導き、呪文は短文を要請する。
 つまり短文は決して文章を簡潔にも歯切れよくもせず、むやみに湿った、感情に絡みつき搦め取る体の、感傷に満ちた「抒情詩」となるのである。

 短文で名文を書くのは難しく、短文にこだわって自己陶酔に終わってしまうのなら、やめるべきという、この助言同様厳しいのが、名文の定義です。丸谷才一のことばを引用しています。
 ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋れてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。

 わたしの器に合ったものが『わたしの名文』だと言われて途方に暮れますが、当然といえば当然です。また、丸谷才一は、『自分が、名文だとそのとき思った。それを熟読玩味して真似ようと努力する。そのうちに文章を見る目が上がるんじゃありませんか』とも言っています。

 悪文も名文も充実した内容でしたが、わたしにとって一番印象的だったのが、『あとがき』です。著者は、この本が新仮名遣ではなく歴史的仮名遣で書かれている理由を語り、『もし私達が、先人の苦闘に対して少しでも謙虚な気持になれるなら、たうてい歴史的仮名遣は棄てることができないはずである』と書いています。歴史的仮名遣を棄てたという意識はわたしにはなく、日本語の歴史に対する無知を思い知りました。著者の薦める『私の国語教室』(福田恒存著)を読んでみたいと思いました。
posted by 作楽 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(日本語/文章) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする