
中村 喜春 著
草思社 出版
著者は、芸者としても通訳としても活躍されたようです。そんな著者が選んだ言葉を見ると、言葉もまた、時代を映す鏡なのだと再認識しました。
そんな時代もあったと思い出したのは、『褄はずれ』(つまはずれ)と『立てすごす』です。『褄はずれ』は、広辞苑では、『取りまわし。身のこなし。』と、あります。この本では、『お茶の飲み方でも、ご飯の食べ方でも、襖の開け方でも、全部の動作を「褄はずれ」と言います』と、説明されています。使用例として、『あの人は本当に褄はずれの上品な人ネ』とか『あの奥さんはどうも褄はずれがガサツだから、お育ちがあまりよくないんじゃないの』などが、あげられています。
品格や所作が話題にのぼる機会が以前より少なくなって、こういった言葉が聞かれなくなったのでしょうか。その代わりにどんな話題が増えたのか、すぐには思いつきませんが、損得や貧富の話題にとって代わられていないことを願います。
『立てすごす』は、『女が男の人の面倒を見ることを言います。女性のヒモになる男や、女の人に養われてお小遣いをせびる、そんなタイプの男性の面倒を見ることは含みません。』と、書かれてあります。将来性が感じられるものの、貧しい大学生の学費や生活費の面倒を見たり、仕事の行き詰った実業家などを経済的に支えたりすることを指すようです。『女の人に立てすごされて立派になった男性は、例外なく女性 (奥様) を大切にしておられます。』と、著者は言います。いまは、不遇時代に支えてくれた女を大切にするひとより、新たにトロフィー・ワイフを手に入れるひとのほうが一般的かもしれません。昔は、トロフィー・ワイフにあたる言葉すらなかったのかもしれないと思うと、時代の流れが悲しく見えます。
わたしが、特に共感できた著者のことばは、『付かず離れず』と『引っ込み』です。『付かず離れず』は、『ほどほどに人とお付き合いすること。』とあります。『のっぴきならない羽目に陥る』ことなく、『ほどほどに付かず離れずのお付き合い』が大切だと著者は教えられたそうです。
そして、『付かず離れずのお付き合いで、それでもお互いに助け合い、支え合ってきました』と、書かれてあります。相手に踏み込み過ぎず、助け合い、支え合える距離を保つことは、わたしも見習いたいと思いました。
『引っ込み』は、さまざまな場面で使えるそうです。仕事をやめるときも、男女が別れるときも、きれいに終えることは難しく、大切だということです。これからのわたしに必要なことだと思いました。
かつての価値観に触れ、少し理解できた気がします。