2024年12月23日

「いきな言葉 野暮な言葉」

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中村 喜春 著
草思社 出版

 著者は、芸者としても通訳としても活躍されたようです。そんな著者が選んだ言葉を見ると、言葉もまた、時代を映す鏡なのだと再認識しました。

 そんな時代もあったと思い出したのは、『褄はずれ』(つまはずれ)と『立てすごす』です。『褄はずれ』は、広辞苑では、『取りまわし。身のこなし。』と、あります。この本では、『お茶の飲み方でも、ご飯の食べ方でも、襖の開け方でも、全部の動作を「褄はずれ」と言います』と、説明されています。使用例として、『あの人は本当に褄はずれの上品な人ネ』とか『あの奥さんはどうも褄はずれがガサツだから、お育ちがあまりよくないんじゃないの』などが、あげられています。

 品格や所作が話題にのぼる機会が以前より少なくなって、こういった言葉が聞かれなくなったのでしょうか。その代わりにどんな話題が増えたのか、すぐには思いつきませんが、損得や貧富の話題にとって代わられていないことを願います。

『立てすごす』は、『女が男の人の面倒を見ることを言います。女性のヒモになる男や、女の人に養われてお小遣いをせびる、そんなタイプの男性の面倒を見ることは含みません。』と、書かれてあります。将来性が感じられるものの、貧しい大学生の学費や生活費の面倒を見たり、仕事の行き詰った実業家などを経済的に支えたりすることを指すようです。『女の人に立てすごされて立派になった男性は、例外なく女性 (奥様) を大切にしておられます。』と、著者は言います。いまは、不遇時代に支えてくれた女を大切にするひとより、新たにトロフィー・ワイフを手に入れるひとのほうが一般的かもしれません。昔は、トロフィー・ワイフにあたる言葉すらなかったのかもしれないと思うと、時代の流れが悲しく見えます。

 わたしが、特に共感できた著者のことばは、『付かず離れず』と『引っ込み』です。『付かず離れず』は、『ほどほどに人とお付き合いすること。』とあります。『のっぴきならない羽目に陥る』ことなく、『ほどほどに付かず離れずのお付き合い』が大切だと著者は教えられたそうです。

 そして、『付かず離れずのお付き合いで、それでもお互いに助け合い、支え合ってきました』と、書かれてあります。相手に踏み込み過ぎず、助け合い、支え合える距離を保つことは、わたしも見習いたいと思いました。

『引っ込み』は、さまざまな場面で使えるそうです。仕事をやめるときも、男女が別れるときも、きれいに終えることは難しく、大切だということです。これからのわたしに必要なことだと思いました。

 かつての価値観に触れ、少し理解できた気がします。
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2024年12月22日

「A Rumpole Christmas Stories」

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John Mortimer 著
Penguin Books 出版

 法廷弁護士の主人公 Horace Rumpole が迎えたクリスマスの数々が短篇になっています。収められているのは、次の 5 篇です。

ー Rumpole and Father Christmas
ー Rumpole's Slimmed-Down Christmas
ー Rumpole and the Boy
ー Rumpole and the Old Familiar Faces
ー Rumpole and the Christmas Break

 Rumpole は、妻のことを She Who Must Be Obeyed と呼ぶ恐妻家で、クリスマスも働きたい仕事中毒で、周囲からは頻繁に「Don't be rediculous」と、あしらわれ、ずんぐりとした体型の冴えない男のように描かれていますが、鋭い視点で事件を解決に導くこともあり、侮れません。

 鮮やかに解決した Rumpole に対して拍手を送りたくなる事件もありますが、法廷で Rumpole が活躍したように見えても、実は違ったという「Rumpole and the Boy」が一番好きです。"the Boy" は、Edmund という男の子で、個性の強い Rumpole を相手に対等に話せる、申し分のない登場人物です。その Edmund が裁判に関する書籍に Rumpole の名前を見つけ、その手腕に感じ入った様子を見せ、 Rumpole もまんざらでもない気分に浸ります。

 しかし、結末では、Rumpole が代理人をつとめた被告、Edmund の母親が放免されたのは、Rumpole の反対尋問が首尾よく運んだせいではなかったと明かされます。 Rumpole にとっては、ほろ苦い終わり方ですが、Edmund にとっては幸せの象徴のような場面で、印象に残りました。世の中の常識から外れても、幸せに生きる彼ら親子の姿に、あたたかい気持ちになりました。

 Rumpole が善き行ないをしたように見えて、実は利用されていたとわかる「Rumpole and the Old Familiar Faces」とは対照的です。

 ひとの善き面も悪しき面も、見た目では判断できないと言いたげなこの作家が生んだ、灰汁の強い Rumpole というキャラクターは、読んでいて飽きません。
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2024年12月21日

「はじまりはジャズ・エイジ」

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常盤 新平 著
講談社 出版

 グレート・ギャツビーの舞台となった時代、ジャズ・エイジは、映画にもよく登場します。わたしのなかのイメージでは、『桜』のような時代です。燦然と輝くいっぽう、呆気なく終わってしまう、そんな印象をもっています。もう少し背景を知りたいと思ってこの本を読み、日本との違いがこれまでよりもわかった気がしました。

 著者は、ジャズ・エイジを『禁酒法が実施された 1920 年 1 月 16 日に始まり、ウォール街の崩落があった「暗黒の木曜日」といわれる 1929 年 10 月 24 日までの不思議な時代』と呼んでいます。さらに、『1920 年代は、アメリカ文化が都会化した時代であり、ニューヨークが社会的にも知的にもアメリカの中心になった時代である』と、書き、『それまでの勤倹貯蓄によって新事業をおこすという「生産の倫理」は、大量生産される新しい商品のマーケットをつくるために必要な「消費の倫理」にとってかわられ』たとも、いっています。しかし、そのあとのできごとをこう記しています。『20 年代は 30 年代によってあっさり否定されてしまう。それも、無残に。1920 年代という時代が存在しなかったかのように扱われる。30 年代は 20 年代がつくった負債を払わされる時代だったので、そのように扱われても仕方のないところがあった』と。

 わたしたち日本人も大量消費の時代、高度経済成長期を経験しましたし、過去の負債を払わされるのと似た経験をしたのかもしれません。しかし、わたしたち日本人が経験したことがないと思われる点を著者は指摘しています。それは、禁酒法です。

 著者は、『禁酒法という世にも不思議な法律があったから、1920 年代というあの変わった時代が存在したのではないか』と書き、『少なくとも、アル・カポネというギャングスターが実業家として自称しても、社会が受け容れるはずがなかった』といいます。そのうえ、『禁酒法は、法律を破っても平気だという風潮を生んだ』らしいのです。

 日本で、破っても仕方のない法律として、わたしが最初に思う浮かべるのは、食糧管理法、配給以外の食料を取り締まった法律です。生きる権利を求めて日本人が法律に違反していたよりもずっと以前に、アメリカでは自由を求めて法律を破っていたのです。わたしがジャズ・エイジに華やかさをイメージする理由は、そのあたりにあるのかもしれません。

 しかし、誰もがジャズ・エイジを楽しんでいたのではないようです。『物欲のアメリカに愛想をつかした若いアメリカ人はたいていパリに行った』と、著者は書いています。思うように海外への渡航できなかった日本の感覚からすると、ヨーロッパに逃げ出したひとたちにさえ、自由や華やかさが感じられます。

 自ら経験しなかった時代のことだけに、この本から多くを得られた気がします。
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2024年12月20日

「論文の書き方」

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清水 幾太郎 著
岩波書店 出版

 タイトルの『論文』について著者は、哲学、思想、文化、社会科学方面における『知的散文』といった意味だと書いています。つまり、詩や小説など芸術的効果を狙ったものや自然科学分野の報告などは含まれません。

『知的散文』に限らず、わたしがこれまで意識せずにいたと気づかされたのは『が』の使い方です。著者は、『文章の勉強は、この重宝な「が」を警戒するところから始まるものと信じている』と書いています。重宝というのは、『が』がつなぐ前と後の関係がどうであっても、つなげることを指しています。具体例として、『彼は大いに勉強したが、落第した』という文の『が』をやめて、『彼は大いに勉強したのに、落第した』、あるいは『彼は大いに勉強したので、合格した』と書けば、『が』でつないでいたときに比べ、前後の句の関係がクッキリと浮かびあがってくると著者は書いています。

 また、『文章は建築物である』という見出しの項では、極めて緩くしか前後の句をつなげない『が』と違って、『ので』、『のに』、『ゆえに』、『にも拘わらず』などは、二度と離れないよう堅くつなげる接続助詞だと説明されています。つまり、文章という建築物を堅牢にするためには、安易な『が』ではなく、吟味された接続助詞を使うべきだというのです。

 もう 1 点、説得力のある解説だと思ったのは、文の長さです。文は、短いほうがよいとする意見もあれば、短い文で奇をてらうことなどするなという意見もあります。この本を読んで、わたしなりの基準がはっきりしました。一度読んですんなりと頭に入ってこないほど主語と述語が離れてしまう、あるいは主語や述語が簡単に特定できないほど修飾語が長くなってしまう場合、見直すべきだと思いました。

 著者は、『複雑な内容を正しく表現しようとすればするほど、一つ一つの文章は短くして、これをキッチリ積み重ねて行かねばならないように思う』と、書いています。先の『文章は建築物』という喩えに従うなら、土台 (文の骨組み) をつくり、適切な接続詞や接続助詞を使いながら順番に積んでいくということでしょうか。

 著者は、映像がどれだけ発達しようとも、文章は、抽象的観念や未来を描くのに重要だと書いています。それを読み、これからも文章の書き方を学びたいと思いました。
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2024年12月01日

「月面にアームストロングの足跡は存在しない」

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穂波 了 著
KADOKAWA 出版

 期待したものが欠けていて、物語のなかに入りこめませんでした。たとえば、アームストロングが月面に降り立ったというのは捏造だという設定です。長年とりざたされてきた話題ですし、それに反論する説も数多く公表されています。それなのに、その隠蔽が『ディープフェイク』のひとことで片づけられていたのは、もの足りなく感じました。たしかに、ディープラーニングの歴史と重なってはいますが、半世紀以上も隠蔽できるものなのでしょうか。

 また、アメリカという大国の隠蔽工作の中心に日本人がいるという設定も、その理由がアームストロングと足のサイズが同じというのも、都合のよすぎる設定に思えます。さらには、個人の事情に同情し、国を裏切る宇宙飛行士の存在も違和感を感じます。大それた行動を起こすひとの動機がなんとなくしっくりきません。

 全体的に、わたしにとってリアリティが感じられない内容でした。物語の舞台が宇宙という壮大な空間にあるわりには、登場人物の小競り合いが卑近で、しっくりと馴染まない気がするのかもしれません。ひとの心のうちにある小さな葛藤を描く場が宇宙である必要はないように思えます。宇宙に行くリスクや覚悟、宇宙開発に必要とされる資金やテクノロジーなど、当然のことばかりで、新鮮味がなかったのも残念でした。
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