![20080624[IemoriKitan].jpg](https://witch-sara.up.seesaa.net/image/200806245BIemoriKitan5D-thumbnail2.jpg)
梨木 香歩 著
新潮社 出版
「村田エフェンディ滞土録」を気に入ったので、その村田氏が登場するこの「家守綺譚」も読んでみました。梨木香歩ワールド世界が広がっているような1冊でした。時代は「村田エフェンディ滞土録」と同じなので、百年ほど昔になります。場所は日本。綿貫という売れない文士が、亡くなった学友である高堂氏の親から、住まなくなった家の管理を任されたところから、始まります。
「綺譚」とあるので、おかしなことが起こってもいいのですが、その起こり方がどうも自然過ぎて、するっと日常に紛れ込んでしまう可笑し味があります。たとえば、亡くなった学友の登場シーン。
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いつの間にか掛け軸の中の風景は雨、その向こうからボートが一艘近づいてくる。漕ぎ手はまだ若い・・・・・・高堂であった。近づいてきた。
−−どうした高堂。
わたしは思わず声をかけた。
−−逝ってしまったのではなかったのか。
−−なに、雨に紛れて漕いできたのだ。
高堂は、こともなげに云う。
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そして、この高堂氏はあちらの世界の人間だけに、綿貫氏が知らないことも隠していることもお見通しの上、飄々と冗談を飛ばし、ふたりの会話を可笑しくしています。
この友人同士ふたりの掛け合いもおもしろいのですが、もうひとり、不思議を不思議とも思わない男が登場します。長虫屋です。家に出る百足、ヘビ、マムシなどを譲り受けて薬種問屋に売っている男です。この男、綿貫氏にこんな風に突拍子もないことを言い出します。
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−−昨日、この辺で雷が落ちたでしょう。
−−雷ならひどい音がしたが、それが不思議にこの界隈ではなかったようだ。
−−いや、ここに落ちたのでさあ。
急にぞんざいな口調になって、
−−お庭の白木蓮に。それで孕んだのでさあ。
−−孕んだ? どういうことだ。
−−どうもこうも。白木蓮はタツノオトシゴを孕んでおります。
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本当かと思うのですが、物語のなかでは本当なのです。こういう不思議な世界に漂っていると、現代の日本人の暮らしが歪んで見えます。わたしたちは、間違った方向にただひたすら急いでいるわけではないのかと。
そのことは、次のように書かれています。
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文明の進歩は、瞬時、と見まごうほど迅速に起きるが、実際我々の精神は深いところでそれに付いていっておらぬのではないか。鬼の子や鳶を見て安んずる心性は、未だ私の精神がその領域で遊んでいる証拠であろう。鬼の子や鳶を見て不安になったとき、漸く私の精神も時代の進歩と齟齬を起こさないでいられるようになるのかもしれぬ。
ペンが動かぬ、というよりは、筆硯塵を生ず、と云った方が少なくとも私の精神に馴染む。
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最近、こういう風にわかりやすく書いてくれる作品を少し敬遠したくなるときがあります。もう少し、わたしたち読者に任せてもらえないかと。こう書かずに、こう感じさせて欲しいように思うのです。古典と呼ばれる作品との違いがそこにあるのではないか、とふと思うことが増えました。
この本を読んだところですので、ちょっと前の記事ですが、コメントさせていただきます。
楽しみました。ゆったりした時間の流れと、人と人ならぬ異界の住人たちとの触れ合いを。
きっと、100年前の日本には、まだこういう、異界を隣に感じるような空気があったんだと思います。
コメントとトラックバック、ありがとうございました。
「本が好き!」プロジェクト、知りませんでした。面白そうですね。また、ときどき拝見させていただきます。