![20090324[NihongotoKanjiBunmei].jpg](https://witch-sara.up.seesaa.net/image/200903245BNihongotoKanjiBunmei5D-thumbnail2.jpg)
黄 文雄 著
ワック 出版
欧米のコンピュータ・エンジニアだと、中国と日本が別の国だと知っていても、中国と日本が別の言語をもつと知らない人もいます。わたしの周辺では漢字のことをChinese charactersと表現しているので、それが原因ではないかと推測しています。
でも、(コンピュータ)技術的には、中国語より日本語のほうが面倒なことが多いのではないかと思います。わたし個人の直感では、特にカタカナと漢字の読み方の問題が大きいと思っています。
しかし、この本では、そのカタカナ(ひらがな)や漢字の訓読み生み出したことによって、中国発祥の漢字を日本語に取り入れたあとに日本文明が柔軟性や独創性など優位をもって発展したのではないかと考えられています。
本は、中国大陸における漢字の問題から始まります。中国語は孤立語で、ことばの位置によって、意味が変わります。また、地域差が激しくてことばが通じないという状態にあっても、基本的にひとつの漢字のよみ方はひとつです。
漢字は、次のように六通りの成り立ちをもっています。あらためて以下を見てみると、漢字をある程度知っていれば、知らない漢字の意味をつかんだり、読み方を推測できたりする理由がわかった気がします。
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象形・・・物の形をかたどって漢字を作ること。日・月・木・馬など。
指事・・・位置や状態を図式で示すこと。上・下・本・末など。
会意・・・二つ以上の漢字を組み合わせて新しく漢字を作ること。林(木+木)・信(人+言)・武(戈+止)・明(日+月)など。
形声・・・意味を表す漢字と発音を表す漢字を組み合わせて漢字を作ること。河(水+可)・銅(金+同)・材(木+才)・悲(心+非)など。
転注・・・本来の意味から転じて他の意味を表すこと。音楽の「楽(がく)」が楽しむ「楽(らく)」に転用されるような場合を指すと考えられるが、解釈が分かれる。
仮借・・・漢字をもとの意味と関係ない漢字に転用すること。食器を表す「豆(とう)」を食物の「まめ」を表すのに用いたり、麦を表す「来(來)」を「くる」の意味に用いたりするなど。
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しかし、漢字だけで構成されている漢文には、意味が不明瞭な点など問題がありました。文明の進んだ国から取り入れた漢文だけに、概念的な知識量は驚くばかりだったに違いないと思いますが、日本語から見ると、やはり不都合だったわけです。それで、今の日本語に変わるための変化があらわれたと説明されています。
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漢文は日本語と語順も違うし、膠着語である日本語に不可欠な助詞や語尾変化もない。これを補うために漢字に一二(いちに)点やレ点(返り点)をつけて語順を入れ替え、さらに助詞や送り仮名を付した。こうして外国語に少し手を加えて自国語として読むという、非常に奇妙な読み方が発明されたのである。
このような訓読法がいつどのようにして成立したのかは定かではないが、七世紀末ごろにはすでに行われていたらしい。
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学生時代に習った漢文の読み方は、七世紀あたりにできたようです。助詞についても、以下のようにこの本で説明されていました。昔、学校で習ったはずですが、すっかり忘れていた新鮮な目でみると、いかに多彩な意味を添えることができるものかと感心してしまいます。本中の例に見ると、中国語の場合、日数が書かれていても、「いつから」という起点が不明瞭になり、その解釈がわかれるということでした。つまり、「から」という助詞が存在すれば、その意味が明瞭になるわけです。すでに助詞をもっていたら、それを付け足したくなる気持ちはわかる気がします。
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格助詞・・・語の関係性を表す。「に」「へ」「で」など。
(例)「バス_で_学校_に_行く」
接続助詞・・・上の語の意味を下につなげる。「ば」「ても」「から」「ながら」など。
(例)「疲れた_から_、休み_ながら_行こう」
副助詞・・・語に意味を添える。「さえ」「でも」「くらい」「まで」など。
(例)「一時間_くらい_余裕があるから、映画_でも_見よう」
係助詞・・・下の述語に影響を及ぼす。「は」「も」「こそ」など。
(例)「若いとき_こそ_勉強_も_がんばらなくてはいけない」
終助詞・・・文末につく。「な」「か」など。
(例)「どこかに行こう_か_」「廊下を走る_な_」
間投助詞・・・文末の終わりにつく。「ね」「さ」など。
(例)「大人は_ね_、泣いたりしないんだよ」「君は_さ_、もっと気をつけなくちゃ」
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漢字をとりいれ、さまざまな発達した概念をとりいれた日本。それに従来の助詞をつけ、訓読みを付け加えた日本。その上、外来語はカタカナ表記でいとも簡単に丸のみしている日本。そう考えたとき、大野 晋氏の本で読んだことを思い出しました。日本語の「学ぶ」ということばは、「まねる」からきているそうです。とりあえず、「まねる」という旺盛さと、日本語は相互に影響しあっている気がします。日本の文化が日本のことばに影響を与え、日本のことばが日本の文化を育てていく。そう思えてきます。そして、漢字という膨大な概念を取り入れ、さらに国字を生み出し、カタカナを使って中国に限らず諸外国のものや概念を取り込む。ここに日本独自のなにかがあると言われれば、とても説得力があります。
著者は、基本的に、日本のその柔軟性や独創性を肯定的に評価していると思えます。しかし、本も最後の最後になって、漢字というものを維持していくデメリットをこう書いています。
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少なくとも言語と文字の歴史から見て、漢字から表音文字に切り替えた民族や国家はあっても、独自の民族文字を捨てて漢字を採用した近代国家はない。ベトナム人や朝鮮・韓国人の民族文字使用は、まさしくそれを物語るものではないだろうか。
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日本はすでに高い識字率を有しています。だからといって、漢字を覚えることに費やす労力や時間をこのまま次の世代にも引き継いでいくのがいいことなのか、考えさせられました。分厚い本は、そのことを考える予備知識ではなかったかと思え、本を閉じたとき、本が終わった気がしませんでした。