2010年03月23日

「街場の大阪論」

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江 弘毅 著
バジリコ 出版

 「街場」ということばが聞き慣れないので調べてみると、この著者の造語のようです。本文では、次のように言及されています。
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 秋葉原というところは、顔がない「一人ぼっちのみんな」でいっぱいの街だ。その「一人ぼっちのみんな」は原宿の「オレたち」や新宿歌舞伎町の「あの人たち」的ではない、のっぺりとした「みんな」を形成している。その「みんな」はもちろん「知らない人」ばかりの集団だ。
 街で「知らない人なのに知っている人」に出会うこと。そういう機会がまだまだ多いのが大阪という街の特徴であり、そういうところをわたしたちは多分に感覚的な言い方で「街場」などと呼んだりしている。
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「多分に感覚的な言い方」なので、わかったようなわからないような気になるのですが、それはまあ仕方のないことでしょう。でも、この「知らない人なのに知っている人」に出会うところを、わたしがことばにするとしたら、たぶん「地元」でしょう。名前も知らないけど、あの大型犬をいつも散歩させているおばさん。名前を聞こうとは思わないけど本を借りているカフェのマスター。買い物したときおまけしてくれるおかみさん。そういう人たちと会うところなら、自分が暮らしている街しか思い浮かびません。でも、いま住んでいるところは、生まれ育った場所ではありません。ただ上京してきてアパートを探して行き当たった場所にしか過ぎないので、「地元」と呼ぶのは変かなという気もします。そういう場所が「街場」なんでしょうか。

 ひとつひとつのエッセイの内容としては、同じように(わたしにとっては)わかったようなわからないようなことが続くのですが、なんとなく自分の暮らしが変わったことをあらためて認識するものさしを差し出された気がするようなものが多いです。

 たとえば、ミシュランは日本では成功しないだろうという意見。
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 それは、こちらではまだまだ<食>というものは、消費活動のためのものでなく、生活者つまり暮らしのなかのものであると思っているからだ。街は経済活動の場であり消費空間であるが、非常に街的度が高い人間からすると、それは生活の場に違いない。
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 上記のこちらはミシュランが話題だけに日本のことを指しているのですが、残念ながらわたしにとって外食はもう消費活動に入っている気がします。昔は、近所のお好み焼き屋で食べる<食>はたしかに暮らしのなかだと思えました。でも今は、どんどんそういう割合が減って、バッグを買うショップを使うように、レストランを使っている気がしてきました。

 なんか引っかかる(答えを期待してなにかを考えるのではなく、見過ごしていたことが気になって考えたくなる)エッセイでした。
posted by 作楽 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(関西) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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