
関沢 英彦 著
ポプラ社 出版
まいりました。
殴り合いの喧嘩なんてことは一度も経験がないのですが、よくドラマなどで、鳩尾のあたりにパンチがしっかり入ってしまって、体が折れ崩れていく様が描かれています。経験がなくても、バッチリ痛いところにはまってしまって立ち上がれない辛さに堪えるという感じが伝わってきます。
まさしく、そんな感じでした。
といっても、何のことだか。この「ひらがな思考術」のカタカナでわかった気分にならず、ひらがなで考えようという主張に「まいりました」と言うしかない感じが、パンチがはまって簡単には立ち上がれない様子に近いのです。
日頃、コンピュータ関連の翻訳をしていると、英語で表されている専門用語を日本語にしなければならないという場面にはよく出くわします。そんなとき、漢字やひらがなを使ってわかりやすい日本語にしようと考えるより、英語が透けて見えるようにカタカナにしてしまおうと考えがちなのです。
漢字/ひらがなになった訳語よりもカタカナの訳語のほうが定着している前例が多いこと、専門知識不足から意味の外れた日本語訳になってしまうリスクが少なくなることなど、時間と手間を掛けない都合のいい理由はいろいろあります。
でも、それによる弊害もあります。この本が指摘しているように、とりあえず雰囲気でカタカナを使っていても、上滑りしているだけで、きちんとコミュニケーションできていない、ということが起こる可能性が高くなってしまいます。
さまざまな角度から、「ひらがなで考える」意味や利点を考えるこの本の中で、私の中で一番印象に残っているのは、「ひらがなは情報を知恵にする。」ひらがなで置き換える努力をして使っている考えというのは、自分の身になっている言葉だから、知恵として活用できます。言われてみればそのとおり。そのためには、「ひらがなに翻訳してみる。」ことを忘れてはいけないのでしょう。
わかっているけど、仕事はやっぱり別、ってところに落ち着きそうです。でも、私個人の部分では忘れたくない考えです。