
桐野 夏生 著
岩波書店 出版
怒りが書くことの原動力になることが多いと、直木賞受賞作家が対談で話していたのを思い出しました。
マッツ夢井というペンネームで小説を書いている作家がある日、映倫の書籍版のような総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会という組織に軟禁され、社会に適応した作品を書くよう更生を強いられるところから物語は始まります。映倫と違って多大なる強制力を有するブンリン (文倫) は、レイプや暴力、犯罪などを肯定する人物が登場する小説を書くのは反社会的であり、そんな作品を書いている限り、社会に戻すことはできないと言い渡します。
マッツ夢井は、小説は、全体でひとつの作品なので、レイプや暴力の部分だけ、それらのことばだけを取り上げて論ずるのは間違っていると反論しますが、一切相手にされず、水かけ論が続きます。しかし、個人的尊厳も権利も何もかも剥奪する体制を敷いている行政機関相手に為す術もなく、マッツ夢井は、精神的にどんどん追い詰められていきます。
いまの日本の状況をオーバーに描くとこうなるのでしょうか。少し時間をかけて包括的に理解しようとする意思はなく、細断された部分だけで善悪を判断する姿勢は、何が何でも相手の落ち度を見つけ、よってたかって批判しようとしているようにも見えます。
もしこの作家が、自らが感じた怒りを原動力にこの作品を書いていたら……、そう思うと、この作品の結末が気になって仕方がありませんでした。一気に読み、最後の一文を見たとき、やり切れない気持ちになりました。同時に、人という弱い存在が忠実に描かれているようにも感じられました。