グレイス・ペイリー (Grace Paley) 著
村上 春樹 訳
文藝春秋 出版
以下が収められた短篇集です。
− 必要な物 (Wants)
− 負債 (Debts)
− 道のり (Distance)
− 午後のフェイス (Faith in the Afternoon)
− 陰鬱なメロディー (Gloomy Tune)
− 生きること (Living)
− 来たれ、汝、芸術の子ら (Come On, Ye Sons of Art)
− 木の中のフェイス (Faith in a Tree)
− サミュエル (Samuel)
− 重荷を背負った男 (The Burdened Man)
− 最後の瞬間のすごく大きな変化 (Enormous Changes at the Last Minute)
− 政治 (Politics)
− ノースイースト・プレイグラウンド (Northeast Playground)
− リトル・ガール (The Little Girl)
− 父親との会話 (The Conversation with My Father)
− 移民の話 (The Immigrant Story)
− 長距離ランナー (The Long-Distance Runner)
グレイス・ペイリーは、本書を含めて短篇集 3 冊を発表したのみと著作数は極めて少ないのですが、知名度の高い作家だそうです。不勉強なわたしは、この作家のことを知りませんでしたが、近くの図書館で開かれた本の交換会で、この本を薦めているような、いないような推薦文 (右側の画像の帯) が気になって知ることになりました。
社会そのものの一部がこの本に収まっているような短篇集にも見えますし、幸運に見放された人々にも公平にスポットライトがあたった群像劇のようにも見えます。
なぜ、この短篇集が社会の縮図のように見えたのか。たとえば、フェイス (ペイリー自身がモデル) は、「午後のフェイス」に娘として登場するだけでなく、「生きること」では、生きることに疲れた女性としてあらわれ、「木の中のフェイス」では、小さな子供を抱える母親としてママ友と話しをしています。さらに「長距離ランナー」では、子供が大きくなった 42 歳のフェイスがあるとき突然、少しでも遠くに少しでも速く行きたいという思いにとらわれ、ランニングを始めます。
ひとりの人物が社会的にいろんな立場で生き、それぞれの場面でそれぞれ違う顔を見せるが実社会です。それに似た状況が短篇集全体で再現されているように見えました。キティーは、ある男の女友達として「来たれ、汝、芸術の子ら」に登場しますが、そのときは母性をまったく感じませんでしたが、「木の中のフェイス」でフェイスのママ友として再登場したとき、フェイスに『キティーは母親業の仲間だ。この稼業では最高に腕がいい』と紹介されています。
誰がどんな顔で、どこに登場するか、「ウォーリーを探せ」気分で読みました。それは、意図したとおり読者に伝わるよう整然と組み立てられた空間を見せる短篇連作と違って、フェイスとその家族・友人だけでなく、彼らと直接かかわりのない人々がいくつもの短篇・掌篇に登場するなかを、自ら探索するような気分で読んだということなのかもしれません。
ただ、そういった特徴は、この短篇集の個性のひとつに過ぎません。この作品を翻訳した村上春樹氏が、『ぶっきらぼうだが親切、戦闘的にして人情溢れ、即物的にして耽美的、庶民的にして高踏的、わけはわからないけどよくわかる、男なんかクソくらえだけど大好き、というどこをとっても二律背反的に難儀なその文体』と評しているとおり、作家のメッセージを永遠に受け取れないようなところに惹かれ、あとをひく読書体験ができました。