
吉田 修一 著
中央公論新社 出版
八王子郊外に住む尾木幸則、里佳子夫妻が殺害された現場の被害者宅には、犯人が被害者の血液で書いた『怒』という文字が残されていました。その犯人は、山神一也と特定されますが、その行方は杳として知れません。
そののち、房総の漁協で働く槙洋平と愛子の親子、東京で大手企業に勤める藤田優馬、福岡から夜逃げ同然で母親と沖縄に引っ越した小宮山泉それぞれの前に、山神と似た年恰好の若者があらわれます。
誰が山神なのか、あるいはその 3 人のなかに殺人犯はいないのか、そう疑いの目を向けて読み進めていくうち、あることに思い至りました。怒りとは、期待があってこその感情なのだと。
そして期待とは、自分のことしか考えられず、すべてが自分の思い通りになることを前提とした期待もあれば、相手との距離や信頼関係などを推し量りながら、相手を信じたいという気持ちを徐々に募らせていく期待もあり、十人十色です。そして、それぞれの期待の実態は、本人でさえ正確に把握することはできません。さらに、第三者から見て、どこまでが真っ当な期待でどこからが真っ当ではないと線引きすることも現実的ではありません。
身元のはっきりしないひとりの男の出現をきっかけに、さまざまな期待が生まれるいっぽう、その影の感情が生まれる場面もあります。たとえば、相手の期待が自己中心的なもの、つまり自分を単に利用するためのものではないかという疑いや裏切られるのではないかという恐れです。
それぞれの登場人物の胸の内を読むにつれ、怒りとは何なのか、怒りの燃料となる期待とは何なのか、期待しないということはどういうことなのか、ひとりの人を受け入れるということはどういうことなのか、いろいろ考えさせられました。