2023年04月20日

「昔、言葉は思想であった 語源からみた現代」

20230420「昔、言葉は思想であった」.png

『この世間で日常茶飯につかわれている言葉が、日常語においてのみならず学術語においても、それらの語源から遠くに離れてしまったこと、また歪んだ意味を持たされるに至ってしまったことを』伝えるための本だそうです。

 非難に終始する内容を読み進めるのは、気が重く感じられるときもありましたが、これまでわたしが無造作につかってきた言葉について考える機会が得られました。経済、社会、政治、文化の分野それぞれに 20 を超える言葉がとりあげられていますが、印象に残った言葉をいくつかあげたいと思います。

『天皇 (emperor)』の項では、天皇を英語で emperor と言うことが非難されています。わたしもそう言ってきましたが、著者が指摘するとおり、解釈上混乱を招く表現だと思いますし、著者の提案する inherited shintoist pope (相続制の神道法王) は、少なくとも emperor より相応しい表現だと思います。古事記や日本書紀は、日本文化の一部であり、そういった背景が考慮されている点が優れていると思います。

『国際紛争 (international dispute)』の項では、わたしたち日本人は、戦争から目を背け、正しく表現する言葉を持たずにきたのだと気づかされました。英語圏では disturbance、turmoil、uproar、strife などと『物理力の衝突』の規模や程度について微妙に表現を使い分けて報道されているいっぽう、日本語では、戦争、動乱、騒乱、騒擾といった言葉を気分まかせで使っているため、世界の危機の様相がみえてこないというのです。武力・物理力の範囲と程度に応じて、またその衝突と形態について、報道用語を類別すべきだという著者の提案には首肯せざるをえませんでした。

『民間 (private sector)』の項では、わたしが何気なく受けいれていた英語がとりあげられていました。private sector と対比する言葉として public sector があり、通常、政府部門を意味します。そのことを少々狂っていると著者は形容しています。パブリック (公共) の部門をすべて政府が担当するというのは、逆にいうとパブリック (公衆) がパブリック・マインド (公心、public mind) を持っていない (もしくは公心の発揚をすべて政府に委託する) ことになるというのです。

『市民 (citizen)』の項で、『公』とは (他人を排除せんとする)『ㇺ』つまり私心を、公心によって『切り開かんとする』(『八』) ことであり、公衆になりおおせるのは簡単なこととは思えないと著者は語っています。簡単ではないから、政府にすべて任せてしまおうと言われると、わたしは反対したくなりますが、これまで何も考えず、これらの言葉を使ってきたので、反対する資格はないのかもしれません。

『選挙 (election)』の項で、著者は『民衆が公衆 (あるいは公民) となっているときにはじめて民主主義に積極的な意味が宿る』と述べています。わたしたちは、政治家を批判するわりには、自らが公民として、公心をもって選挙に臨んでいたか、あらためて問うべきかもしれません。

『政治家 (statesman)』の項では、政治家 (statesman) と政治屋 (politician) が対比されています。後者が否定的であるいっぽう、前者が肯定的なのは、ステーツ (複数) という言葉が、『(人々の身分関係のことも含めた) 状態』のことだけではなく、そうした事柄の集積としての『統治の諸状態』(つまり『国家』) を意味するからだと著者は考えています。つまり国家は肯定してかかるべき良きものであり、その良きものにかかわるがゆえに、ステーツマンは肯定語となり、その語には、『高い身分』の者がなす『賢明な統治』という意味も含まれることになります。

 著者によれば、『政治家 (ステーツマン)』にとっては、リアリティ (現実性、reality) とアイディアリティ (理想性、ideality) のあいだで平衡をとらんとするアクティヴィティ (活動性、activity) という意味での、アクチュアリティ (現存性、actuality) が重視されている、つまり、現状維持のリアリズムと現状破壊のアイディアリズムが遠ざけられるというのです。

 日本は、政治屋ばかりを増やし、政治家を根絶やしにしてきたのかもしれません。それは、わたしたち国民が現状維持に固執したことが反映された結果かもしれませんし、あるいは一気に理想が現実となることに期待し、理想と現状のあいだにある目標を非難してきたせいかもしれません。どちらにせよ、国の舵取りを任せられる政治家が死滅したことは、わたしたち国民にも責任がある気がしました。

 国民としての自分を考えるきっかけが得られました。
posted by 作楽 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 和書(日本語/文章) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック