アン パチェット (Ann Patchett) 著
芹澤 恵 訳
早川書房 出版
原題は、「State of Wonder」です。タイトルどおり、さまざまな wonder が起こり、気持ちが揺さぶられる物語でした。自分に見えている世界は狭く、誰にとっても正しい答えなどないのだと思いました。たとえば、科学は、さまざまな事柄を明らかにしてくれますが、その科学をどう活用すべきかについては、万人にとっての正解はないようです。
物語は、ヴォ―ゲル社の研究員アンダーズ・エックマン博士がアマゾン河の支流にある村で亡くなったと知らせる手紙が届くところから始まります。エックマンは、アニック・スウェンソン博士が現地で開発している新薬の進捗状況を確かめて報告する役目を担っていました。その後任をつとめるよう、同社のジム・フォックス CEO から指示され、またエックマンの最期の状況を知りたいと、妻カレン・エックマンから懇願され、主人公のマリーナ・シン博士は、ブラジルのマナウスに向かい、スウェンソンの居場所を突きとめようとしますが、思うようにいきません。物語の展開もそこで止まって膠着状態に陥ります。
ただ、ストーリーに展開がなくても、この物語に惹きつけられてしまうのは、その描写です。特に、心情描写が巧みで、心動かされます。夫の遺体 (遺骨) がないため、カレンは無きに等しい望みを抱き、次のように語ります。
希望って、たちが悪いわ。希望を美しいものとかすばらしいものの部類に入れたのって、いったい誰かしらね。だって、美しくもすばらしくもないもの。希望は苦しみの種よ。釣針が口に引っ掛かった状態で歩きまわってるようなもの。自分以外の誰かの手で、その釣針を引っ張られるの。引っ張られれば歩かないわけにいかないじゃない? で、何歩か歩くと、また引っ張られる。師と尊敬する人物のことを絶賛するアラン・サターン博士に対し、その妻ナンシー・サターン博士は、次のように苦言を呈します。自らのパートナーが女たらしを人生の手本にしていることをどう思っているのか、手にとるようにわかります。
ある人の人生をばらばらにほぐして、自分の理想に当てはまらない構成要素は取り除き、理想どおりだと思えるものだけを寄せ集めて編みなおすなんて、おかしい。マーティン・ラップは偉大な科学者だった、ええ、それはわたしも認めるわ。誰に聞いても、本物のカリスマ性を備えた人物だったと言うから、きっとそうだったんでしょう。でも、それと同時に、ふたりの女に対して徹底的に不誠実だった。はっきり言って、わたしはそれが許せないの。あなたが、いずれこうなりたいと憧れてた相手が、死ぬまでずっと女たらしだったってことが、どうにも許せないの。マリーナがスウェンソンに会えたとき、スウェンソンはそれまでヴォ―ゲル社の人間を避け続けた理由を次のように語ります。スウェンソンの強烈な個性が伝わってきます。
企業はどこも同じです。科学を支援すると言いながら、その実、科学が必要とするものを真に理解しようという姿勢に欠けます。ラップ博士は人生のほぼ半分をこの地で過ごしました。植物学の分野であれほど画期的な仕事を成し遂げた人は、あとにも先にもラップ博士だけでしょう。それでも博士のなさったことは、広大な菌類の世界に手を伸ばし、たまたま手の届いたところの表面をちょっと引っ搔いただけなのです。科学の研究には膨大な時間が必要です。一生分の時間を費やしても足りないぐらいなのです。ならば、わたしが研究に人生を捧げれば、研究の資金提供者である企業も感謝するはずだと思っていませんか? それがそうでもないのです。ジム・フォックスのような人は、時間が必要だということを理解しようとしないからです。自らの好奇心に負けて憑りつかれ、続けてきた研究をあたかも企業のために膨大な時間を捧げたかのように語るスウェンソンが物語で重要な役割を担っているせいで、わたしのなかに疑念が生まれました。
研究者が科学を究めるにしても、企業経営者が利益を追求するにしても、それは自らが支配者であるという傲慢な考えがなければ成り立たないのではないかと。なぜなら、マリーナからの連絡が途絶えたあとにフォックスがとった行動は、どこかスウェンソンに似ています。結局のところ、いろいろ理由をこじつけているものの、研究にしろ企業経営にしろ、真の理由は、そうしたいという衝動に抗えないだけなのかもしれません。
そんなふたりを前にしたマリーナの困惑には、とても共感できましたし、彼女は、読者の代弁者でもあるのかもしれません。マリーナにとって、アマゾンの奥地に向かう旅は、過去や現実と向き合う機会になりました。わたしにとって、この物語は、自分を再認識する機会になりました。スウェンソンやフォックスのような極論を語る人物に近づくことのできない、なんとなく中庸に流される優柔不断なのかもしれないと。いろんなものを映しだしてくれる物語でした。

