2021年09月14日
「一人称単数」
以下を収録しているこの本のタイトルが、どのようにして決まったのか想像してみました。短篇集にまとめようと思った作品のなかの 1 篇のタイトルを本のタイトルとしたのではなく、(『ぼく』という表記を含めて) どれも『僕』が語っている七篇を集め、「一人称単数」という短篇を書き下ろして加え、それを本のタイトルにしたのではないかと思います。
- 石のまくらに
- クリーム
- チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
- ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles
- 「ヤクルト・スワローズ詩集」
- 謝肉祭 (Carnaval)
- 品川猿の告白
- 一人称単数
「一人称単数」は、このなかで唯一『僕』ではなく『私』が語っています。どの主人公も村上春樹氏の声が語っているようにわたしには聞こえますが、「一人称単数」だけ、読者を前にして、公的ともいえる作家という立場で語っているから『私』であり、残りの作品は、個人的な部分を身内に語っているから『僕』ではないかと想像しています。
「品川猿の告白」では人間のことばを流暢に操る猿が登場しますし、もちろん分類としてはすべてフィクション作品なのでしょう。それでも、どの作品にも作家の声が強く響いているようにしか感じられません。「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」にある架空のレコード批評など、氏が 20 代で書いていそうに見えます。
ただ、これら八篇のうち、文中で『村上春樹』と明記され、氏が語っていると明らかになっているのは、「ヤクルト・スワローズ詩集」だけです。これは、1982 年に氏が世に出した詩集 (東京ヤクルトスワローズの公式サイトに掲載された『村上春樹さん応援メッセージ』において、野球観戦時に書き綴った詩を『半分くらいは冗談で』詩集にまとめたと書かれている自費出版の詩集のこと) のことが書かれていて、エッセイのようにも読めます。
わたしが一番気になった作品は、「クリーム」です。18 歳の『ぼく』が奇妙なできごとをきっかけに老人と出会い、『中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円のこと』について考えるよう促されます。外周を持たない時点でそれはもう円ではないと思うのですが、老人は、その難題に知恵で立ち向かうよう言ったあと『時間をかけて手間を掛けて、そのむずかしいことを成し遂げたときにな、それがそのまま人生のクリームになる』と語ります。
『ぼく』は、その難題を抱えたまま長い年月を過ごし、答えに辿り着かないものの、ひとつの推論に達します。『それはおそらく具体的な図形としての円ではなく、人の意識の中にのみ存在する円なのだろう。ぼくはそう思う。たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰 (あるいは信仰に似たもの) を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないか』と。
老人の考えも『ぼく』の考えも、クリアに理解できたという実感はないのですが、『クリーム』という、泡立てる手間も時間も必要とするものの喩えに惹かれました。
わたしが結果的に多くの村上作品を読むことになったのは、こういった想像やちょっとした感想が自然と湧いてきて楽しいからだと思います。
2016年03月12日
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
村上 春樹 著
文藝春秋 出版
「羊をめぐる冒険」とそれに続く「ダンス・ダンス・ダンス」が好きで、ついまた村上春樹の長篇を読んでしまいました。
でも、わたしのなかの村上春樹ランキングのトップは「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」のままです。ファンタジーかどうかわかりませんが、現実感が薄いわりに日常のディティールが描きこまれている両作品に比べて、この多崎つくるの世界は、きわめて現実的で息がつまるほどの閉塞感を感じました。
主人公の多崎つくるは、過去の苦しく辛い思い出と向き合うのですが、そういうことを避けたいと思う自分の傾向からして、なかなか読み進められませんでした。多崎つくるは、観察力や論理構成力があり、生真面目で、ものごとを真剣に受けとめるような、いわゆる堅いタイプなので、現実世界で同僚とするにはいい人なのですが、本のなかでわたしが出会いたいタイプではありませんでした。
本を開いているあいだは解放されたいとか、楽しい気分に浸りたいというときには、向かない本だと思います。
2014年09月27日
「レキシントンの幽霊」
村上 春樹 著
文藝春秋 出版
以下が収められた短篇集です。
−レキシントンの幽霊
−緑色の獣
−沈黙
−氷男
−トニー滝谷
−七番目の男
−めくらやなぎと、眠る女
村上春樹の短編集で最初に思い出すのは「東京奇譚集」です。現実離れしていたり、現実的な暗い局面であってもさらりと受け止めたり、少しばかりツッコミを入れたくなる可笑しさがあったり、そういう印象を受けた作品集でした。
それに比べるとこの短編集は、読後、どんよりしてしまう作品が多く、このなかでは一番好みの「レキシントンの幽霊」以降は、読み進めるのに苦労しました。
たとえば「沈黙」には、とても現実的な部分があって、そこを登場人物がこれ以上ないほど真正面から向き合っているところに逼迫感がありました。また、「七番目の男」は、主人公自らが救われたと言っていながらも、なぜか救われたという実感が伝わってきませんでした。
それらの暗さにリアリティがあっただけに、気持ちとしては、読んだ内容を忘れたいという方向に傾いたのかもしれません。
2014年06月19日
「女のいない男たち」
村上 春樹 著
文藝春秋 出版
9年ぶりの短篇集ということで話題になっていました。(ノーベル文学賞候補になる作家なので、短篇であれ長篇であれ話題になるのだと思いますが。)
以下が収められています。
−ドライブ・マイ・カー
−イエスタディ
−独立器官
−シェエラザード
−木野
−女のいない男たち
村上作品で短篇といえば「東京奇譚集」を思い出すわたしとしては、読む前に期待していた雰囲気にいちばん近かったのは「木野」でした。ファンタジーとも言いきれないけれど理屈でも説明しにくい不可解さ、言葉にすれば嘘っぽく聞こえるけれど確かなことを知っている感覚などが、「東京奇譚集」の「品川猿」を読んだときの印象に似ていた気がするためです。
まえがきで、女のいない男たちは、女抜きの男たちとは異なると書かれてありました。男同士でいこうと意図したものではなく、時として不意に失うといった嬉しくもない状況がこの短篇集で描かれています。要約してしまえば、いつか失うという怖れや失ってしまったという事実と向き合う辛さが描かれているのですが、そういう身も蓋もない端的さでは伝わらない『失われたモノ』や『失われるコト』に共感できる部分がありました。
「ドライブ・マイ・カー」で語る男は、「でも結局のところ、僕は彼女を失ってしまった。生きているうちから少しずつ失い続け、最終的にすべてをなくしてしまった」と言っています。眼の前に相手がいるときから、少しずつ失い続けたというこの感覚がとても身近に感じられました。
自分にも思い当たる喪失感が随所に登場し、読んでいるあいだは集中できたのですが、それでもやはり村上作品としてわたしが読みたかったのは、「木野」のような作品だった気がします。
2012年03月01日
「カンガルー日和」
村上 春樹 著
講談社 出版
23の短篇が収められているのですが、特に印象に残ったのは、次でした。
−4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて
−駄目になった王国
−図書館奇譚
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」は、読者に強烈な印象というかインスピレーションというかを残すらしく、自主製作なんかの映画の原作として採用したいという申し入れがとても多く、ある一定数を超えてからは断っているという内容のインタビューを読んだことがあります。読んでみると、なるほど、と納得できました。寓話のようにも読めるし、ユーモアもあるし、何よりこの物語と対話できそうな内容なので、この作品について掘り下げて考えたくなる人たちの気持ちはわかります。
「駄目になった王国」は不思議な構成の話です。タイトル通り、駄目になった王国の話題で始まるのですが、実際はQ氏というかつての友人の話なのです。そして、最後にどうしてそんなタイトルをつけたのかという言い訳がおまけとしてついてきます。読み終わったあと、”その王国はどんな王国だったのか”気になって仕方がありませんでした。
「図書館奇譚」には、羊男が登場します。「羊をめぐる冒険」にも「ダンス・ダンス・ダンス」にも登場したあの羊男です。このときから、自分のことを「おいら」と言っています。”またお会いしましたね”と声と掛けたくなるようなキャラクターです。弱気で無害なところも変わっていませんでした。