
田村 景子 著
笠間書院 出版
現代サブカル (アニメや映画、マンガやライトノベル) において、希望が怪物とともにどう描かれているかをまとめたものが本書です。希望がフィクションに描かれるのは自然なことだと、わたしは考えます。人が希望を抱きにくい状況が数多くあるなか、こうあって欲しいという理想がフィクションに登場するのは、不思議ではありません。ただ、その希望と『怪物』という組み合わせがテーマになっているのが興味深く感じられました。
怪物とは、『既存の日常、既存のあたりまえから外れた、驚くべきことやものであり、その存在によってあたりまえの日常を揺るがし、あたりまえの日常に破滅的な危機がせまるのを知らせる異様な「警告者」』だと、著者は、書いています。怪物と警告者のイメージが結びつかなかったのですが、著者によると、怪物 (monster) という語は、ラテン語の monstrum (凶兆、警告の意) が由来になっているそうです。monstrum は、種村季弘さんによれば、『世界没落』を指しているそうです。
この本の指摘でなるほどと思ったのは、警告が生まれる素地が時代とともに変化してきたという点です。「風の谷のナウシカ」(1982 〜 94) や「AKIRA」(1982 〜 90) の背景には冷戦時代と核戦争の恐怖があり、「寄生獣」(1988 〜 95) には産業文明や戦争によって汚染された地球と人間の存在意義への懐疑、「新世紀エヴァンゲリオン」(1995 〜 98) には未来が今よりもよくなりはしないというバブル崩壊後の諦観、「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」(2004) には子供をとりまく虐待と貧困、「巨神兵東京に現わる」(2012) には東日本大震災・福島原発事故がつながっています。
さらには、何が怪物なのかも変化していると著者は見ています。3.11 以降の怪物の物語には、人間であったはずの主人公が紛うことなき怪物だと判明する、もしくは主人公が怪物になるタイプが目立つと分析しています。一番怖いのは、身近な人間だという警告が発せられているのかもしれません。それは、古くから脅威と捉えられていた地震を機に、原子力発電所は安全だと言い続けた電力会社、根拠もなくそれを信じていた国民、原子炉建屋が吹き飛び都内の浄水場の水からも放射性物質が検出されても影響がないと言い続けた政府を見て、怪物は身近な人だと捉えるようになったということかもしれません。
米ソの対立や戦争を恐れる社会に比べ、身近な人を恐れなければならない社会のほうが怖い気がするのは、わたしだけでしょうか。