2023年05月01日

「ペッパーズ・ゴースト」

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伊坂 幸太郎 著
朝日新聞出版 出版

 ニーチェの「Also sprach Zarathustra (ツァラトゥストラはこう語った)」を再読した著者が『永遠回帰』という考え方にはっとさせられ、本作品を書いたそうです。(『永遠回帰』は、人間は同じ人生を永遠に繰り返すという考え方で、現世で立派に生きれば、死後、幸せになったり生まれ変わったりするという、宗教によく見られる観念を否定するものです。)

 タイトルのペッパーズ・ゴーストとは、そこに存在しないものを見せる、ボーカロイドのライブなどで使われる、投影方法のひとつです。本作品では、テレビで大々的に報じられた事件が実は、世間を欺く芝居だったのではないかという疑念が生じた場面で、事件がペッパーズ・ゴーストだったのではないかと語られます。

 わたしには、『永遠回帰』は、同じことが繰り返されていると思えばそう見えるし、そう思わなければそう見えないだけのことのような気がして仕方ありませんでした。

 本作品では、小説の登場人物にとっての人生は『永遠回帰』だと仄めかされています。たしかに、小説を何度読んでも、登場人物の人生は変わりません。しかし、本作品では、小説の登場人物が現実の世界にやってきます。彼らは、現実の世界でも、そのまま神の視点 (作者視点) で語られ続け、登場人物の一人称は使われません。それは、彼らが現実の世界でも、神の視点から逃れられずにいる、つまり決められた人生を歩んでいるように見えました。

 また、登場人物のひとり、中学校の教師は、自らの力不足から生徒を救えなかった過去を悔いつつ、人を救いたいと日々もがいています。そしてその教師は、誰かを救うために未来を変えていきます。ただ、その教師が、ある人物がペッパーズ・ゴーストを企てたのではないかと推測する場面でわたしは、未来を変えたいと強く願いすぎたせいで、教師には現実がペッパーズ・ゴーストに見えたのではないかという疑問をもちました。つまり、未来が変わったように見えた場面でも、予測した未来が間違っていて、未来を変えたように見えていた可能性を否定できません。

 これまでの伊坂作品同様、読んでいるあいだ、それぞれのキャラクターを楽しめたのですが、答えのない問いをずっと考え続けている気分になり、自分の考えがまとまらなくなりました。

2021年01月23日

「PK」

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伊坂 幸太郎 著
講談社 出版

 伊坂幸太郎といえば、ある短篇で張られた伏線が別の短篇で回収されるといったパターンや、ある短篇で脇役で登場した人物が別の短篇でクローズアップされるといったパターンの短篇連作を得意とするイメージを思っています。たとえば「ラッシュライフ」を読んだあとは、その緻密な伏線に驚きました。

 この短篇集を読み終えたとき、つまらなかったとか面白かったとか、何かしら感想が浮かぶ前に、小説の世界についていけていたのか自問してしまいました。何が伏線だったのか、あるいは何が事実だったのか、一見相容れないように思われる事柄は本当につながっていたのか、いろいろなことに確信がもてませんでした。

 短篇は、全部で 3 つです。

−PK
−超人
−密使

 あるできごとが「PK」でも「超人」でも語られているのですが、細部が異なり、本当に同じできごとなのか確信がもてずにいると、最後の短篇「密使」でいきなり、タイムトラベルが可能な舞台設定が明かされ、さらに他人の時間を盗むことができる『時間スリ』という行為も存在する、つまり一連の作品がサイエンスフィクションだったと判明します。

 その時点で、密使が「PK」と「超人」の世界で何かを変えた、あるいは変えようとしているのではないかと思ったものの、漠然としか理解できませんでした。短篇同士がどういう関係にあるのか、巻末の解説を頼りに理解しようとしても、解説者も正解は持ちあわせていないようでした。

 読む側に委ねられる部分が多い作品で、それを楽しめる方々に向いているように思います。
posted by 作楽 at 21:00| Comment(0) | 和書(日本の小説・伊坂幸太郎) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月15日

「死神の浮力」

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伊坂 幸太郎 著
文藝春秋 出版

死神の精度」で登場した千葉という死神が長篇で大活躍します。

 人間の言動を熟知していない千葉の的外れな発言は「死神の精度」でも、たびたび眼にしましたが、今回は、その見事な外れっぷりに前回以上に笑ってしまった気がします。というのも、千葉が今作で<死ぬべきときにある人間かどうかを>調査している対象の男性は、小学生の娘を殺され、その殺人犯が無罪判決を得て出所してきたところを妻と一緒にいたぶり殺そうとしているのです。そんな追い込まれた状況にある夫婦と仕事ゆえに夫婦に張りつく千葉のギャップが、なんとも言い難い空気を生んでいます。

 夫妻は、邪悪の化身ともいうべき犯人に様々な罠を仕掛けられ、追い込まれていきます。千葉は、そんな夫妻に張りついて調査するために、夫妻の役に立てるよう努めます。常識的に考えれば、これから罪を犯そうという人間が、見知らぬ他人をそばに置いておきたいわけがありません。しかし、千葉が夫妻の役に立てるよう努力する以上に千葉は、夫妻の役に立ち、無事1週間の調査を終えることができます。

 その1週間の進展は、山あり谷ありで、読んでいて退屈する暇もありません。張られた伏線がきれいに回収されて、読後感のいい終結を迎えます。世の中の理不尽を当然のことと冷ややかに見るだけでなく、悪あがきしてみるのもいいかもしれないと、束の間しみじみしました。

2013年02月14日

「SOSの猿」

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伊坂 幸太郎 著
中央公論新社 出版

 わたしが伊坂作品に抱いていたイメージとは異なる作品でした。栗原裕一郎氏は解説で次のように紹介しています。

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「いわゆる完全に非現実的な物語の土台の上に、非現実的なキャラクターを登場させるのは相対的に容易である。しかし現実的な物語の土台の上に非現実的なキャラクターを登場させることは、大変難しい。それを伊坂さんは、『SOSの猿』で鮮やかに達成している」
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 ここでいう非現実的なキャラクターがタイトルにある「猿」です。もっと具体的に言うならば、西遊記の孫悟空です。

 わたしの眼から見た感想としては、現実的な物語の土台に登場する孫悟空が結構浮いていました。また、伊坂作品に期待するユーモアや娯楽性よりも理屈や辻褄あわせがめだち、期待を裏切られたような読後感でした。

 これは、漫画家である五十嵐大介氏の作品「SARU」と対になっている作品で、両作品で概念を共有しているものの、それぞれ単独で成立する作品になっているそうです。そのため、伊坂作品のカラーが感じられなかったのかもしれません。あるいは、作品から問いかけられる内容が、すでに読んだ伊坂作品とは違って、自分が追い求める問いと重ならないからかもしれません。理由は自分でも判然としませんが、いつものように楽しめませんでした。

 従来の伊坂作品のファンには、あまり評判のよくない作品だと解説に書かれてありましたが、その点は納得できました。

2011年07月27日

「砂漠」

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伊坂 幸太郎 著
実業之日本社 出版

 いままで読んだ伊坂作品はどれもレベルが高かったので、そのぶん高い期待を抱いて読んだのですが、少しもの足りませんでした。

 ほかの作品同様、緻密に伏線が張られてあって、そう繋がってくるのかという小さな驚きや納得はありました。でも、ほかの作品でよく感じる観察の鋭さの代わりに、登場人物それぞれの生まれもった個性(たとえば際立って美しい容姿とか、特殊な能力とか、かなり裕福な生まれとか)に頼って人物が描かれている気がして、人の根幹には触れていないようなもの足りなさを感じました。

 ただ、主人公が大学生なので、葛藤やら何やら面倒なことを抱え込む年代ではないのかなとも思いましたが、それならそれで、その年頃ならではの恋愛のもろもろをきちんと描いて欲しかったという点で、やっぱりもの足りないものがあります。