
本の出版が近い知人がぼやいていました。巻末の索引に手間取っているそうです。最後の最後の工程で、ほんの少し行がずれて、索引のページが正しくないところが大量に出てきてしまったそうです。そのとき、初めて知りました。索引は作品の一部だから、著者が用意するのだそうです。(事典などは特殊なので、編集者が全面的に協力してくれるそうなのですが。)だから、編集者が手を入れてくれたほんの数行がページのずれを生んでも、自分が索引をチェックしなおさないといけない、と愚痴りたくもなるのは、わかる気がします。
でも、本を利用する立場のわたしからすると、索引はとても大切なものです。あるとないのでは、天と地ほども違うと思っています。たとえば、わたしが持っている本では、「Scholastic Dictionary of Idioms」という英語の熟語の語源などが載っている本は、索引がよくできていて、英語の熟語を目にすると気軽に手に取って見ます。一方、同じような毛色の本なのですが、索引がないので、もう必要ないかな、と思っているのが、「のぞき見トムとハットトリック」です。一度通して読んだあと、ふたたびリファレンスとして活躍するかどうかの分かれ目が索引にあるのではないかと思います。
そう思っていたら、索引のことが「本の手帳」という雑誌に載っていました。何よりも驚いたのは、索引はこんなにも奥が深いのだということ。
たとえば、索引に関する書籍だけでもかなりありそうです。「本の手帳」を見ているだけで、「國書の索引」「さくいん」「索引」「索引の話」「索引の考察」「索引作成者の認知とテキスト構造との関連から見た索引作成過程」「索引 作成の理論と実際」などです。
これだけの考察を可能とする索引作成作業において、索引にすることばの抽出が一番難しそうです。次に、抽出したことばが記載されている箇所をどこまで索引ページに加えるかなのでしょう。
これは、逆の立場、つまり読者のことを考えてくれている著者にとっては、自然なことではないでしょうか。読者にとって一番の問題は、索引に掲載されていて欲しいと思うものが掲載されていることだと思います。あることの説明が載っていたという記憶はあっても、そのページがわからない、という使い方がわたしの場合は一番多いように思うからです。しかし、読者が記載されていて欲しいものを断定するのは不可能です。読者は不特定多数ですから。
しかし、難しいから安易に済ませる、というのではなく、わたしの知人のようにぼやきながらも最後まで正確を期すよう努力する姿勢は、読者にとって喜ばしいものです。通読したあともリファレンスとして使える余地のある実用書にとって、その本が活かされるか活かされないかは索引で決まるくらいの重さがあると思うからです。
ちなみに、「本の手帳」の記事の題名は、「編集者から見た索引編集」です。執筆は、飛鳥勝幸氏。『「これは惜しいな・・・・・・」「時間がなかったのかなぁ・・・・・・」とつぶやきながら、索引のない本をボーッと眺めることがある。』そう書き始められています。この「惜しい」という気持ちは本当によくわかります。でも、「惜しい」と思うだけでなく、その先を考えるチャンスをくれたのはこの記事でした。
○○出典○○
『本の手帳』創刊2号
出版社:小学館