2021年11月10日

「空洞のなかみ」

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松重 豊 著
毎日新聞出版 出版

「サンデー毎日」に 2018 年 10 月 14 日号から 2020 年 10 月 18 日号に掲載されたエッセイと書き下ろしの短篇連作 12 篇が収められています。

 あとがきによると、エッセイの書籍化だけでは分量が乏しく、何を加えるか検討に入ったのが COVID-19 が深刻化する前、その後撮影などが許される状況でなくなり、何か書こうかと思い立って、できあがったのがこの 12 篇の短篇だそうです。もしかしたら、COVID-19 のパンデミックがなければ、誕生しなかった短篇なのかもしれません。

 この本のタイトルは、おそらく短篇連作の内容からきているのでしょう。一連の短篇は、あまり売れていない 40 代の俳優が、ひょんなきっかけから京都の広隆寺で弥勒菩薩半跏思惟像 (みろくぼさつはんかしいぞう) と向き合う経験を得たところから始まります。彼は、この像は、中がくりぬかれてあり、空っぽだと、ある老人から教わります。そして、空っぽと無は違うとも老人から指摘されます。

 どう違うかの解釈は、ひとによって違うと思うのですが、わたしは、空っぽには、何かが入る前提あるいは何かを入れる心づもりが感じられますが、無にはそれがないと思いました。その空洞は、さまざまな役の中身が入る俳優なのかもしれません。(小説の終わりのほうに主人公の解釈も登場します。)

 そんなことを考えさせられるきっかけをつくったその老人は、最終篇でまた登場します。短篇を読み進めながら線をたどっていたつもりが、最終篇で始点とつながり、ひとつの輪になって完結したような感覚がしました。

 論理的というか、老人が最初に登場するプロローグから始まり、主人公がさまざまな役を演ずる第 1 話から最終話まで続き、エピローグで老人が再登場して終わるという構成になっていて、とてもすっきりとする構成です。しかも、第 1 話から最終話という呼び名が、テレビの連続ドラマを感じさせ、登場する俳優に合っています。

 いっぽう、エッセイのほうはどれも笑ってしまいました。どれも個性的な長いタイトルがつけられていて、なんとなく連想ゲームの雰囲気が感じられます。また、俳優の仕事を垣間見ることもできます。短篇とエッセイという組み合わせといい、個性的な一冊でした。
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2021年08月07日

「乱心タウン」

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山田 宗樹 著
幻冬舎 出版

 日本ではあまり聞かないゲーテッド・コミュニティが舞台になっています。『マナトキオ』と名付けられたこのゲーテッド・コミュニティは、総面積が 50 万平米で、区画あたりの面積は最低 200 坪、周囲に高さ 3 メートルの壁を張り巡らし、出入り用のゲートに警備員を常駐させ、セキュリティに万全の体制を敷くという、本格的な仕様です。

 郊外の『マナトキオ』から都心までヘリコプターで行き来する住人も多いのですが、そんな超高級住宅街が日本にあったとして、どんな人たちが住むのか、わたしには具体的に想像することはできません。でもライトというかシンプルなこの小説は、『マナトキオ』のなかは奇矯で、そとは真っ当という構図で対照的に描いています。

 マナトキオの人々は、権力や金銭や異性などに極度に執着し妄想に走っているいっぽう、そとの人々は家族や正義など大切なものを失わないよう踏ん張っていて、両者のあいだで揺れて行き来する人々もいれば、一見そとの人に見えたのに実はなかの人というケースもあります。群像劇のように見えなくもありません。

 多くの読者が共感するであろうそとの人々に、さまざまな困難が降りかかりますが、最悪の事態は起こらず、普通の暮らしを肯定しているといっていいと思います。

 伏線が張られていたり、意外な結末があったり、楽しめる要素もいろいろありましたが、全体としては物足りない印象でした。理由は、この小説のなかにある単純な社会のドタバタ劇にリアリティを求めてしまったことだと思います。展開のテンポも良く、ドタバタを純粋に楽しめるよう工夫された作品なので、これはわたしの性分の問題だと思います。
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2021年06月20日

「日没」

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桐野 夏生 著
岩波書店 出版

 怒りが書くことの原動力になることが多いと、直木賞受賞作家が対談で話していたのを思い出しました。

 マッツ夢井というペンネームで小説を書いている作家がある日、映倫の書籍版のような総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会という組織に軟禁され、社会に適応した作品を書くよう更生を強いられるところから物語は始まります。映倫と違って多大なる強制力を有するブンリン (文倫) は、レイプや暴力、犯罪などを肯定する人物が登場する小説を書くのは反社会的であり、そんな作品を書いている限り、社会に戻すことはできないと言い渡します。

 マッツ夢井は、小説は、全体でひとつの作品なので、レイプや暴力の部分だけ、それらのことばだけを取り上げて論ずるのは間違っていると反論しますが、一切相手にされず、水かけ論が続きます。しかし、個人的尊厳も権利も何もかも剥奪する体制を敷いている行政機関相手に為す術もなく、マッツ夢井は、精神的にどんどん追い詰められていきます。

 いまの日本の状況をオーバーに描くとこうなるのでしょうか。少し時間をかけて包括的に理解しようとする意思はなく、細断された部分だけで善悪を判断する姿勢は、何が何でも相手の落ち度を見つけ、よってたかって批判しようとしているようにも見えます。

 もしこの作家が、自らが感じた怒りを原動力にこの作品を書いていたら……、そう思うと、この作品の結末が気になって仕方がありませんでした。一気に読み、最後の一文を見たとき、やり切れない気持ちになりました。同時に、人という弱い存在が忠実に描かれているようにも感じられました。
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2021年05月31日

「法廷遊戯」

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五十嵐 律人 著
講談社 出版

「無辜ゲーム」と「法廷遊戯」の 2 部構成になった小説です。前半の第 1 部では、ロースクールの模擬法廷で行われる無辜ゲームとはどんなものか、登場するのはどんな人物でお互いどう関係するのか、などが明らかにされます。後半の第 2 部では、第 1 部で主要な役割を果たした登場人物が、ゲームではない本物の裁判において、被害者、被告人、弁護人となって物語が進みます。

 法律用語が文中に登場しますが、都度わかりやすい説明が付され、理解しながら読み進められるようになっているだけでなく、法曹であろうとも人としての誤りから逃れられないこと、罪を犯した者たちが不起訴になるケースが多いこと、裁判は真実を明らかにするための場ではないこと、冤罪を晴らすことは不可能に近いことなどの事実を再認識できるようになっています。

 法制度、加害者家族問題、児童虐待、貧困問題など、正解のない問題が満載の作品ですが、わたしにとって一番印象に残っているのは、第 2 部で弁護人を務める久我清義を見て、『良心を持ち合わせること』と『他者に対しては想像力が働かないこと』は、最悪の組み合わせで、やりきれないと感じたことです。

 良心を持たなければ、他者に対する想像力がなくても、本人にとっては何ら不都合はないでしょう。(周囲の人々にとっては、迷惑そのものだと思いますが。)

 しかし、久我清義のように、良心を有したまま、逮捕されるリスクを無実の第三者に転嫁させる手筈を整えて罪を犯せば、罪を犯してまで手に入れたものを危うくしてしまいます。久我清義に起こった問題をこの先できるだけ起こらないようにするには、『自分だけでなく他者にも想像力を働かせる余裕』が必要なのでしょう。しかし、その難しさも同時にこの小説で示されているために、やりきれない気持ちが残ったのだと思います。
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2021年04月13日

「ライオンのおやつ」

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小川 糸 著
ポプラ社 出版

 一見意味不明なタイトルですが、この『ライオン』は、『ライオンの家』という名のホスピスを指しています。百獣の王であるライオンは何も恐れず、安心して食べたり寝たりできることから、ゲストと呼ばれるホスピスの入居者たちもそう過ごしてほしいという願いからきた名前です。

 27 歳という若さで癌に罹り、抗がん剤などの苦しい闘病を経て、32 歳で余命宣告を受けた、海野雫という女性が主人公で、彼女が最後の住まいとして選んだのが、瀬戸内海に浮かぶ島の『ライオンの家』でした。

『ライオンの家』では、毎週日曜日におやつの時間があり、そこで供されるおやつは、入居者がリクエストすることになっています。おやつを食す前に読み上げられるリクエストの手紙を通して、その人の人生を垣間見ることができます。どんな過去があったのかだけでなく、死を目前にしてその過去をどう振り返るか、どう捉えなおすかにその人の人となりがあらわれます。

 もちろんこれは物語であって、経済的に余裕のない人が、これほど恵まれた環境で最期を迎えるという奇跡は実際には起こらないでしょう。でもそのフィクションのなかに、そうなのかもしれないと共感できることばもありました。

『思いっきり不幸を吸い込んで、吐く息を感謝に変えれば、あなたの人生はやがて光り輝くことでしょう』と、ゲストのひとりであるシスターが言っています。『いっつもここで料理作ってると思うんだ。生かされているんだなぁ、って。だって、生まれるのも死ぬのも、自分では決められないもの。だから、死ぬまでは生きるしかないんだよ』と、余命宣告を受けたあともライオンの家の料理人を務める女性が、さりげなく語っています。そして雫は、『一日、一日を、ちゃんと生き切ること。どうせもう人生は終わるのだからと投げやりになるのではなく、最後まで人生を味わい尽くすこと』と死に向き合っています。

 もちろん現実社会では、そんないい人ばかりではなく、だからこそ、この物語が広く読まれることになったのかもしれません。また、誰もが迎える最期を誰もが気にしているからこそ、多くの方が手にとったのではないかとも思います。
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