九段 理江 著
新潮社 出版
かなり独特な世界観が展開されるいっぽう、いまの日本の風潮が透けて見える気がして、考えさせられました。おもな登場人物のひとり、建築家の牧名沙羅は、『ヒトを「思考する建築」、「自立走行式の塔」と認識』したり、『建築は都市を導き、未来を方向付けるものでなければならない』と考えたり、建築物が堅牢でなければならないのと同様、『強い意志と義務を示すコンクリートのように硬質な言葉たち』を欲しています。
わたしのなかでは、建築物とヒトは異質なので、彼女の個性的な世界観が理解できませんでした。ただ、硬質な言葉を欲する彼女の気持ちだけは理解できた気がします。彼女の頭のなかは『ワードチョイスの検閲機能が忙しなく働く』状態になっています。つまり、さまざまなことに対する配慮が欠けていないか、口にする前に吟味しているわけです。有名人の失言が容易に拡散される時代ならではの設定だと思います。過剰な『配慮』によって、言葉が曖昧になっていく過程で、断定的な硬質な言葉を欲するようになったのではないか私は想像します。
東京に建設される予定の刑務所のデザインコンペに参加するか否かを検討している彼女は、その刑務所の名称に違和感を覚えています。そのため、地上 71 階建てのその高層ビルが「シンパシータワートーキョー」という名称に決まったにもかかわらず、彼女は、「刑務塔」という代替案を考えますが、納得できず、結局は、「東京都同情塔」がいいということになります。こうした、カタカナ表記の外来語の多用は、わかったようなわからないような曖昧さを生んでいるのかもしれません。
そのせいか、彼女は、『『シンパシー』を許容することはできない。』と語っています。また、『私には未来が見えているんだよ……日本人が日本語を捨てて、日本人じゃなくなる未来がね。』とも語っています。彼女は外来語の多用を憂えているように見えます。
この小説の舞台では、『従来「犯罪者」と呼ばれ差別を受けてきた属性のヒト、また刑事施設で服役中の受刑者、非行少年を指して、その出自や境遇やパーソナリティについて「不憫」、「あわれ」、「かわいそう」といった同情的な視点を示し、彼らを「同情されるべき人々」、つまり「ホモ・ミゼラビリス」と再定義』することになっています。呼び方を変えても、なにも変わらないのに、あたかも革新的な概念を導入したかのように語られるあたり、滑稽にも見えます。
そのいっぽうで、「ホモ・ミゼラビリス」は、希望すれば「シンパシータワートーキョー」にいつまでも滞在できる仕組みになっていて、それが、タワーマンション並みの暮らしを餌にした一種の隔離のようにも描かれていて、なんとも皮肉です。
ありとあらゆる人やモノに配慮するいっぽう、犯罪者を隔離するという不寛容が、わたしたちの思考を具体化したものであるのなら、わたしたちは進むべき方向を考え直すべきなのかもしれません。

