2021年08月07日

「乱心タウン」

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山田 宗樹 著
幻冬舎 出版

 日本ではあまり聞かないゲーテッド・コミュニティが舞台になっています。『マナトキオ』と名付けられたこのゲーテッド・コミュニティは、総面積が 50 万平米で、区画あたりの面積は最低 200 坪、周囲に高さ 3 メートルの壁を張り巡らし、出入り用のゲートに警備員を常駐させ、セキュリティに万全の体制を敷くという、本格的な仕様です。

 郊外の『マナトキオ』から都心までヘリコプターで行き来する住人も多いのですが、そんな超高級住宅街が日本にあったとして、どんな人たちが住むのか、わたしには具体的に想像することはできません。でもライトというかシンプルなこの小説は、『マナトキオ』のなかは奇矯で、そとは真っ当という構図で対照的に描いています。

 マナトキオの人々は、権力や金銭や異性などに極度に執着し妄想に走っているいっぽう、そとの人々は家族や正義など大切なものを失わないよう踏ん張っていて、両者のあいだで揺れて行き来する人々もいれば、一見そとの人に見えたのに実はなかの人というケースもあります。群像劇のように見えなくもありません。

 多くの読者が共感するであろうそとの人々に、さまざまな困難が降りかかりますが、最悪の事態は起こらず、普通の暮らしを肯定しているといっていいと思います。

 伏線が張られていたり、意外な結末があったり、楽しめる要素もいろいろありましたが、全体としては物足りない印象でした。理由は、この小説のなかにある単純な社会のドタバタ劇にリアリティを求めてしまったことだと思います。展開のテンポも良く、ドタバタを純粋に楽しめるよう工夫された作品なので、これはわたしの性分の問題だと思います。
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2021年06月20日

「日没」

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桐野 夏生 著
岩波書店 出版

 怒りが書くことの原動力になることが多いと、直木賞受賞作家が対談で話していたのを思い出しました。

 マッツ夢井というペンネームで小説を書いている作家がある日、映倫の書籍版のような総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会という組織に軟禁され、社会に適応した作品を書くよう更生を強いられるところから物語は始まります。映倫と違って多大なる強制力を有するブンリン (文倫) は、レイプや暴力、犯罪などを肯定する人物が登場する小説を書くのは反社会的であり、そんな作品を書いている限り、社会に戻すことはできないと言い渡します。

 マッツ夢井は、小説は、全体でひとつの作品なので、レイプや暴力の部分だけ、それらのことばだけを取り上げて論ずるのは間違っていると反論しますが、一切相手にされず、水かけ論が続きます。しかし、個人的尊厳も権利も何もかも剥奪する体制を敷いている行政機関相手に為す術もなく、マッツ夢井は、精神的にどんどん追い詰められていきます。

 いまの日本の状況をオーバーに描くとこうなるのでしょうか。少し時間をかけて包括的に理解しようとする意思はなく、細断された部分だけで善悪を判断する姿勢は、何が何でも相手の落ち度を見つけ、よってたかって批判しようとしているようにも見えます。

 もしこの作家が、自らが感じた怒りを原動力にこの作品を書いていたら……、そう思うと、この作品の結末が気になって仕方がありませんでした。一気に読み、最後の一文を見たとき、やり切れない気持ちになりました。同時に、人という弱い存在が忠実に描かれているようにも感じられました。
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2021年05月31日

「法廷遊戯」

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五十嵐 律人 著
講談社 出版

「無辜ゲーム」と「法廷遊戯」の 2 部構成になった小説です。前半の第 1 部では、ロースクールの模擬法廷で行われる無辜ゲームとはどんなものか、登場するのはどんな人物でお互いどう関係するのか、などが明らかにされます。後半の第 2 部では、第 1 部で主要な役割を果たした登場人物が、ゲームではない本物の裁判において、被害者、被告人、弁護人となって物語が進みます。

 法律用語が文中に登場しますが、都度わかりやすい説明が付され、理解しながら読み進められるようになっているだけでなく、法曹であろうとも人としての誤りから逃れられないこと、罪を犯した者たちが不起訴になるケースが多いこと、裁判は真実を明らかにするための場ではないこと、冤罪を晴らすことは不可能に近いことなどの事実を再認識できるようになっています。

 法制度、加害者家族問題、児童虐待、貧困問題など、正解のない問題が満載の作品ですが、わたしにとって一番印象に残っているのは、第 2 部で弁護人を務める久我清義を見て、『良心を持ち合わせること』と『他者に対しては想像力が働かないこと』は、最悪の組み合わせで、やりきれないと感じたことです。

 良心を持たなければ、他者に対する想像力がなくても、本人にとっては何ら不都合はないでしょう。(周囲の人々にとっては、迷惑そのものだと思いますが。)

 しかし、久我清義のように、良心を有したまま、逮捕されるリスクを無実の第三者に転嫁させる手筈を整えて罪を犯せば、罪を犯してまで手に入れたものを危うくしてしまいます。久我清義に起こった問題をこの先できるだけ起こらないようにするには、『自分だけでなく他者にも想像力を働かせる余裕』が必要なのでしょう。しかし、その難しさも同時にこの小説で示されているために、やりきれない気持ちが残ったのだと思います。
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2021年04月13日

「ライオンのおやつ」

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小川 糸 著
ポプラ社 出版

 一見意味不明なタイトルですが、この『ライオン』は、『ライオンの家』という名のホスピスを指しています。百獣の王であるライオンは何も恐れず、安心して食べたり寝たりできることから、ゲストと呼ばれるホスピスの入居者たちもそう過ごしてほしいという願いからきた名前です。

 27 歳という若さで癌に罹り、抗がん剤などの苦しい闘病を経て、32 歳で余命宣告を受けた、海野雫という女性が主人公で、彼女が最後の住まいとして選んだのが、瀬戸内海に浮かぶ島の『ライオンの家』でした。

『ライオンの家』では、毎週日曜日におやつの時間があり、そこで供されるおやつは、入居者がリクエストすることになっています。おやつを食す前に読み上げられるリクエストの手紙を通して、その人の人生を垣間見ることができます。どんな過去があったのかだけでなく、死を目前にしてその過去をどう振り返るか、どう捉えなおすかにその人の人となりがあらわれます。

 もちろんこれは物語であって、経済的に余裕のない人が、これほど恵まれた環境で最期を迎えるという奇跡は実際には起こらないでしょう。でもそのフィクションのなかに、そうなのかもしれないと共感できることばもありました。

『思いっきり不幸を吸い込んで、吐く息を感謝に変えれば、あなたの人生はやがて光り輝くことでしょう』と、ゲストのひとりであるシスターが言っています。『いっつもここで料理作ってると思うんだ。生かされているんだなぁ、って。だって、生まれるのも死ぬのも、自分では決められないもの。だから、死ぬまでは生きるしかないんだよ』と、余命宣告を受けたあともライオンの家の料理人を務める女性が、さりげなく語っています。そして雫は、『一日、一日を、ちゃんと生き切ること。どうせもう人生は終わるのだからと投げやりになるのではなく、最後まで人生を味わい尽くすこと』と死に向き合っています。

 もちろん現実社会では、そんないい人ばかりではなく、だからこそ、この物語が広く読まれることになったのかもしれません。また、誰もが迎える最期を誰もが気にしているからこそ、多くの方が手にとったのではないかとも思います。
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2021年02月25日

「それから」

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夏目 漱石 著
朝日新聞社

 家の整理をしていたら、『それからノート』なるものが出てきました。1909 年 6 月から 10 月にかけて朝日新聞紙上で連載された、夏目漱石の「それから」は、2015 年に再連載されました。それら連載を切り抜いて貼ることができるノートです。

 ノートには、漱石が、大学で教える仕事を辞し、朝日新聞社に入社した経緯を綴った「入社の辞」が掲載されています。大学講師として得ていた年俸 800 円では、子供が多くて家賃が高い状況では暮らしがたたず、他校の仕事を掛け持ちして凌いでいたところに、『文芸に関する作物 (さくぶつ) を適宜の量に適宜の時に供給』する担当として朝日新聞から誘われ、新聞社では『米塩 (べいえん) の資に窮せぬ位の給料をくれる』いっぽう、教師として収入を得ることを禁じられたので、未練なく新聞社の仕事一本に絞ったようです。

『何か書かないと生きてゐる気がしない』という状況にあった漱石にとっても、彼の作品を楽しんだ人々にとっても、利のある転職だったように見受けられます。ただ、後世において、ずっと読み継がれる作品を書いた作家が、そこまで生活に窮していたのは驚きです。

 漱石の初期三部作「三四郎」(1909年)、「それから」(1909年)、「門」(1910年)の 2 番目にあたるこの作品の主人公は、長井代助という高等遊民です。中学時代からの友人平岡 (代助が思いを寄せる三千代の夫) に向かって、次のように語ります。
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僕の知ったものに、まるで音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒も懸け持ちをやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読 (したよみ) をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているより外に全く暇がない。たまの日曜などは骨休みとか号して一日ぐうぐう寐ている。だからどこに音楽会があろうと、どんな名人が外国から来ようと聞 (きき) に行く機会がない。つまり楽 (がく) という一種の美くしい世界にはまるで足を踏み込まないで死んでしまわなくちゃならない。僕からいわせると、これほど憐れな無経験はないと思う。麵麭 (パン) に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麵麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。
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 漱石の「入社の辞」を読んだあとに「それから」を読むと、ここで語られる学校の教師と漱石が重なります。

 代助は、三千代と結婚すると決めたがために、高等遊民という立場を捨てざるを得なくなり、結果的に『麵麭に関係した経験』を始めることになります。代助が自らのエゴイズムから自らのいう劣等なことに追い込まれる場面で、先のセリフに教師を登場させた漱石の思いを知りたくなりました。
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