2024年08月03日

「ちいさな言葉」

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俵 万智 著
岩波書店 出版

 何気ない日常を短歌にして一世を風靡した歌人だけあって、ことばを覚えつつある息子が、ほんの束の間使うことばなどを聞き流さず、観察し、エッセイとして残しています。

 たとえば『おんぶ』。著者は、息子をおんぶしたことがなく、おんぶされるほかの子を見た息子は、『背中で抱っこ』してほしいとねだったそうです。でも、『おんぶ』ということばを知ってしまうと、『背中で抱っこ』を使わなくなったそうです。著者は、そんなことばを次のように見ています。
 子どもの言葉に、はっとさせられることは多い。手持ちの言葉が少ないぶん、表現したい気持ちがそこに溢れていて、聞いた大人は楽しくなる。時には楽しくなるだけでなく、驚いたり、考えさせられたりもする。
 このエッセイで、わたしが一番はっとさせられたのは、わたしにはもう残っていない熱量でした。著者は、ことあるごとに息子から『英語でいうとなに?』と尋ねられた時期があったそうです。『英語でいうとなに?』攻撃は、それこそえんえんと続いたようで、著者は、『必要に迫られなくても身につけたいと思うのが、子どもなのかもしれない』と結んでいます。

 英語くらい話せないと困るかもしれないとか、英語ができないと試験に合格できないとか、そういった計算ではなく、自分たちとは違うことばを純粋な好奇心から知りたいと思う気持ちは、わたしにもありました。日本語との違いに気づくたび、日本語への理解も深まり、おもしろくて仕方がなかった頃のことを思い出し、あの熱量はもう戻ってこないのだと気づかされました。わたしも著者同様、考えさせられました。
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2024年08月02日

「名文と悪文 ちょっと上手な文章を書くために」

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 名文と悪文が実例付きで紹介され、優れた文章指南書と悪い文章指南書にも触れられています。著者が悪文とする例では、文章を世に出す仕事の方々、国文学者、新聞記者、大手出版社の編集者、翻訳家などが辛辣に批判されています。ただ、新聞や書籍の読者のひとりとしては、著者の主張には納得できましたし、これまでの疑問が氷解した点もありました。

 一文を短くすると、伝わりやすい簡潔な文章になると信じていたいっぽう、短い文章を読んで、舌足らずのように感じることが多いことに疑問を感じていました。その感覚が正しい可能性もあると思ったのは、著者が『第 8 章 短文信仰を打ち破れ』で、朝日新聞の天声人語をひとつ引用し、次のように解説していたからです。
「昨日も今日もあしたも」「活動の広がりと深さ」「息遣いが聞こえる」「男も女も外国人も」「人間らしさを求める営み」「仲間」「生きている喜び」「新しい自分に出会う」。
 かういふものがつまりは内容空疎な感情語であり、新聞特有の説教臭の漂ふ詠嘆語なのだが、これを立て続けに並べることで、人間愛の讃歌を奏でようといふわけだ。
(中略)
 かうした一種の宗教音楽を支へるものは、この特有の語句に加へ、一句毎に感情を盛り上げて行く短文の連続に他ならない。短文が呪文を導き、呪文は短文を要請する。
 つまり短文は決して文章を簡潔にも歯切れよくもせず、むやみに湿った、感情に絡みつき搦め取る体の、感傷に満ちた「抒情詩」となるのである。

 短文で名文を書くのは難しく、短文にこだわって自己陶酔に終わってしまうのなら、やめるべきという、この助言同様厳しいのが、名文の定義です。丸谷才一のことばを引用しています。
 ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋れてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。

 わたしの器に合ったものが『わたしの名文』だと言われて途方に暮れますが、当然といえば当然です。また、丸谷才一は、『自分が、名文だとそのとき思った。それを熟読玩味して真似ようと努力する。そのうちに文章を見る目が上がるんじゃありませんか』とも言っています。

 悪文も名文も充実した内容でしたが、わたしにとって一番印象的だったのが、『あとがき』です。著者は、この本が新仮名遣ではなく歴史的仮名遣で書かれている理由を語り、『もし私達が、先人の苦闘に対して少しでも謙虚な気持になれるなら、たうてい歴史的仮名遣は棄てることができないはずである』と書いています。歴史的仮名遣を棄てたという意識はわたしにはなく、日本語の歴史に対する無知を思い知りました。著者の薦める『私の国語教室』(福田恒存著)を読んでみたいと思いました。
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2024年06月15日

「語りかける季語 ゆるやかな日本」

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宮坂 静生 著
岩波書店 出版

 その土地の文化や慣習が感じられる、四季のことばを俳句の季語に擬して、『地貌季語』と著者は呼び、それらをここにまとめています。

 その土地独自の方言が消えつつあるだけでなく、地球温暖化の影響からか、春や秋が消えつつあるいま、『地貌季語』を慈しむ著者の気持ちがなんとなく理解できます。

 それで、わたしにとっての一番の『地貌季語』を春夏秋冬それぞれに選んでみました。

 春は、『木の根明く (きのねあく)』。雪国では本格的な雪解けが始まる前に、木の根元から雪が消え始めます。木の根元だけぽっかりあいた様子をあらわすこのことばは、雪に覆われた木々とそこはかとなく感じられる春の到来をたった五文字であらわしています。

 夏は、『立ち雲 (たちくも)』。沖縄の入道雲、雲の峰のことです。空の高さも雲の厚さも陽射しの強さも伝わってくるようなことばだとわたしは思いましたが、この本では立ち雲は『夜に入っても月光に照らされながら白く光って、でんと据わっている』と説明されています。また、『夜明け前の立ち雲は豊年の約束』という言い伝えもあるそうです。

 秋は、『黄金萱 (ごがねがや)』。萱葺屋根の萱のことですが、伊勢神宮が 20 年に 1 度遷宮の折りに葺き替えられるときに使われる萱は、その地域で黄金萱と呼ばれているそうです。20 年に 1 度の大仕事に向けて、地元では秋がくるたびに黄金萱を収穫し、貯蔵するそうです。収穫前、黄金色に染まる萱山の風景が伝わってくるようです。

 冬は、『雪まくり』。3 月頃の北海道では、固くなった積雪のうえに降り積もった新雪が風に拭かれ、ロール状に巻きながら転がっていくさまが見られ、雪まくりと呼ばれているそうです。その大きさは、小さいもので直径 10 センチほど、大きいものは 50 センチほどにもなるそうです。東北や信州などの山でも見られ、雪の塊がくるくる回転しながら斜面を転がっていくのは、自然が雪の球送りでもしているようだと著者は書いています。豪雪地帯に暮らすことでもなければ見られないだけに、一度見てみたい気もします。

 こういったことばが失われていくのは残念だと思ういっぽう、自分たちの暮らしやすさのためにしてきたことの自然への影響を考えると、自業自得かもしれないと思いました。
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2024年04月14日

「語彙力こそが教養である」

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齋藤 孝 著
KADOKAWA 出版

 教養は、ないよりもあったほうがいいでしょう。ただ、教養を明確に定義する術もありませんし、教養を身につけるためにはどうしたらいいか、わたしを含め、わからないひとも多いと思います。それに対し著者は、語彙を増やせばよいと指南しています。

 しかも、『本書で言うところの「語彙力」とは、単にたくさんのインプットによって言葉を覚え、知識をつけることだけではありません。それを「臨機応変に使いこなせる力」を含めての「語彙力」です』と、わたしのもつ『教養』のイメージに近いことを著者は目指しています。

 語彙力を高める方法に、エンターテイメントに分類される本やテレビ番組が勧められていて、取り組みやすく感じられました。たとえば、ミステリー関連の『ドートマンダー・シリーズ』(ハヤカワ・ミステリ文庫) や『ミステリーの書き方』(幻冬舎)など、テレビ番組の『100 分 de 名著』や『(新) 美の巨人たち』などがあげられています。

 もちろん、そのあとには太宰治、谷崎潤一郎、夏目漱石などの紹介が続くのですが、著者は、夏目漱石を特に高く評価していて、『漱石以前と漱石以後では、日本語の豊かさはまったく違ったものになりました』とまで書き、彼の作品を音読することを薦めています。

 蘊蓄も多く紹介されているのですが、そのなかでもっともおもしろいと思ったのは、ドイツにおいて夏目漱石と似たような役割と果たしたルターとゲーテです。彼らの以前と以後では、ドイツ語の充実度がまったく違うと著者は言います。ルターは、聖書のドイツ語翻訳に挑戦するなか、聖書のことばにぴったりフィットするドイツ語が見つからなければ、新しいことばを作り、結果的にドイツ語の語彙を豊かにしたということです。1534 年にドイツ語訳の聖書が出版されて以降、それまでラテン語で占められていた出版の世界で、ドイツ語の本も多く作られるようになりました。

 18 世紀半ばに生まれたゲーテは、数々の作品をとおして、『ドイツ語に深みをもたらし』、『そこから、ニーチェ、フッサール、ハイデッガー、といった人物が頭角を現し、語彙的にも思想的にもドイツ語はさらに上質なものになった』と著者は語っています。漢語を借用したり、和製漢語と呼ばれることばを作ったりして語彙を増やしてきた日本語の歴史にルターの逸話が、そのあと、明治に数々の文豪が登場したことにゲーテの功績が重なって見えました。

 教養を身につけるというのは難しそうに聞こえますが、語彙力は具体的にイメージできます。これからは、語彙力を増やせているか、自分に問うていきたいと思います。
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2024年02月22日

「「超」文章法―伝えたいことをどう書くか」

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野口 悠紀雄 著
中央公論新社 出版

 著者が『「ためになり、面白く、わかりやすい」文章』を書くために学んだことをまとめたこの本を読み、わたしは、メッセージや長さといった、文章に欠かせない要素に注意を払わずにきたことに気づきました。

 著者は、『文章が成功するかどうかは、八割方メッセージの内容に依存している』と書いています。そして、メッセージの要件は『ためになるか、あるいは面白い』ことだとも書いています。ためになるとは、有用な情報を含むことであり、面白いとは、好奇心を呼び起し、それを満たすものです。そんなメッセージを見つけられないときは、考え抜くしかないそうです。

 わたしはこれまで、書くよう指示されたから、ともかく書くところから始め、そこから『わかりやすい』文章にしようとあがいてきました。あがく前に、書こうとしている文章がためになるか、面白いか、あるいはその両方かをチェックせずにすませていたわけです。

 さらに、文章の骨組みをつくる際に意識すべき『長さ』についても、認識していませんでした。著者は、次のように分類しています。

(1) パラグラフ… 150 字程度
(2) 通常「短文」といわれるもの… 1,500 字程度
(3) 本格的な論文などの「長文」… 15,000 字程度
(4) 「本」… 150,000 字程度

『文章にはさまざまな長さのものがある』わけではなく、『論述文には、1,500 字と 15,000 字という 2 種類のものしかない』というのが著者の主張です。つまり、叙述や描写や会話に魅せられる小説などとは違って、メッセージを伝えるための文章には、短文と長文しかなく、複数の論点がそれぞれ長文で記されているのが本ということのようです。

 文章を練習するとは、ためになるあるいは面白いメッセージを短文か長文でわかりやすく書くということのようです。これまで、文章のパーツの組み立て方といった枝葉末節ばかり気にしていて、太く頑丈な幹があるかを確かめずにいたことに気づけました。
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