2023年03月30日

「日本語で一番大事なもの」

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大野 晋/丸谷 才一 著
中央公論新社 出版

 この本には、和歌の助詞・助動詞を主テーマにした、大野氏と丸谷氏の対談内容が収められています。助詞・助動詞は、巻末の解説において、『名詞、動詞の語根のように、それ自体で独立の意味を表現しうる語にくらべれば、重要性において遥かに劣ると思われる従属的な語が、詩歌の創造において決定的な位置を占めているということは、日本語という言語のもつ大きな特徴を示すものといわねばならない』と評されています。

 大野氏は、助詞・助動詞が短くも大きな役割を担っている例として、次の歌をあげています。

 人知れず絶えなましかばわびつつも無き名ぞとだに言はましものを (伊勢)

『あたしたちの恋を人に知られなかったならば、悲しいことは悲しいけれど、でも、その話は浮き名もうけですよ、本当はそんなことはありませんでした、と言えたのに』という意味のこの歌で、『だに』というのは、たった 2 文字なのに、『せめて……だけでも』とか、あるいは『譲りに譲ってこれだけでもと思うのに』というニュアンスを担っています。

 ただ、助動詞を正しく捉え、自在に使いこなすのは相当難しかったようです。それは、書を写す際の誤りが、むずかしいところでは散見される事実からも窺い知ることができます。

 大野氏によれば、助動詞の寿命は、600 年とか 700 年ぐらいしかなく、それを過ぎると、なんとなく別のことばに変わってしまい、のちの時代では意味がわからなくなるそうです。三大和歌集をもとに考えてみると、奈良時代 (710 年 〜 784 年) に編纂された万葉集、平安時代 (794 年頃 〜 1185 年頃) の古今和歌集、鎌倉時代 (1185 年頃 〜 1333 年) の新古今和歌集をただひとつの時代の知識で読むことは難しいことになります。

 そういった助詞や助動詞の用法の変遷を辿るほか、この対談では、数多くの短歌を例にあげつつ、関係する論文を紹介したり、日本語の文法論について触れたり、多岐にわたる議論がされていますが、わたしに理解できることは、あまりありませんでした。ただ、短歌のおもむきなど、自分が生まれ育った国の文学を解する力がないというのは、寂しいものだと感じました。
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2023年02月10日

「私の好きなお国ことば」

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小学館辞典編集部 編
小学館 出版

 この本の巻末には『方言索引』が 2 ページにわたって掲載されていますが、わたしに意味がわかる単語は半分もありませんでした。それぞれの意味は、全国 47 都道府県別に一編ずつ (大阪と福岡は例外的に各二編) あるエッセイを読めば、わかります。エッセイでは、その地域のことばを話せる人物が、思い出を交えながらお国ことばを紹介しています。

 エピソードのひとつひとつに方言の広がりというか奥深さを感じるいっぽう、これらのことばがこの先、生きたことばとして誰かの記憶に残っていくことはないように思えてきて、寂しく感じられました。年配の方々が、ご自身が子どもだったり、若かったころの記憶の一部として方言を懐かしんでいるのを読みながら、生まれたときからテレビを通じていわゆる標準語に接してきた世代の方々には、こういった記憶はないのではないかと思ったのです。

 それでも、方言も少しは生き延びるのかもしれないと思ったのは、京都を中心に関西で使われている『はんなり』ということばが好きだと豊竹咲太夫さんが書かれていたからです。関西弁話者のわたしにとって、『はんなり』といったニュアンスを標準語であらわすのは難しく、今でもこのことばを使っています。同じ理由で『まったり』も使い続けていますが、こちらは、テレビの影響で全国区の表現になりました。

 鹿児島県のエッセイでは、薩摩弁は他県人にはわかりにくいとあります。他県人が会話に入っていけないほどわかりにくいような薩摩弁だけを話す人は確実に減ってきたと思いますが、『はんなり』や『まったり』といった特定の表現が残っていくということはあるかもしれないと思いました。

 方言の広がりを感じた表現のひとつに、福岡県の『よる』と『ちょる』があります。町田健さんによれば、標準語の『ている』にあたることばは、福岡県では、『よる』と『ちょる』になるそうです。前者は、動作の途中をあらわし、後者は動作の結果をあらわすそうです。つまり、『(人が) 歩いている』は、『歩きよる』となり、『(財布が) 落ちている』は、『落ちちょる』になるそうです。標準語ではどちらも『ている』になり、動作の途中か結果か区別できませんが、福岡のことばでは区別できるそうです。標準語と対にならないこういう表現に方言の多様性を感じます。

 人の思いを伝えることばとして素敵だと思ったのは、渡辺えり子さんが紹介する『けらっしゃい』です。彼女は、このことばを思い出すと山形に帰りたくなるそうです。『はやぐあがてけらっしゃい。ゆっくり休んでけらっしゃい』などと使われ、玄関から中に入ってください、ゆっくり休んでいってくださいという意味です。相手を思い、労う、柔らかなことばだと思います。

 こういった表現を知ると、利便性と引き換えに方言を失ってきたことに、そこはかとない寂しさを感じます。
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2022年12月29日

「この言葉の語源を言えますか?」

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日本語倶楽部 編
河出書房新社 出版

 さまざまな言葉の由来が載っているのですが、わたしにとって身近な話題が印象に残りました。

 ひとつめは、通貨です。米国の通貨はドルで、通貨記号は $ です。S に線が引かれて、Dollar の記号になった理由は、米国が植民地だったことが関係しています。実は、S は、Spain の頭文字だそうです。また、神聖ローマ帝国が発行した通貨に『ダーレル銀貨』というものがあり、スペインでは『ドレラ』と呼ばれていました。それが米国に渡った際、『ダラー』、つまり『ドル』と呼ばれるようになったというのです。

 日本通貨のように、通貨単位の頭文字に線を引いて通貨記号とした一般的なケースとは異なる成り立ちです。

 同様に、ポンドの £ も Pound の頭文字を使っていません。こちらは、イギリスの通貨がポンドになる前、『ライブラ (Libra)』という通貨を使っていて、その頭文字がポンドの時代に移り変わっても、残ったそうです。

 ふたつめは、翻訳ミスとも受け取れる由来です。『富める者が天国に入るのは、ラクダが針の穴をくぐるより難しい』という西洋のことわざがあります。針の穴をくぐれないのは、ラクダに限ったことではないのに、なぜラクダなのでしょう。このことわざは、もともとシリア・メソポタミアの古代語アラム語のもので、『ラクダ』にあたる『gamla』は、『ラクダ』だけでなく『縄』の意味もあるそうです。糸よりもずっと太い『縄』のほうが、針の穴を通すイメージに近いことから、意味の取り違えが語源ではないかと言われているそうです。

 みっつめは、わたしが頻繁に食べる『赤福』です。語源は、『赤心慶福 (せきしんけいふく)』という言葉にあり、『悪しき心を五十鈴川に流してしまい、人の幸福を自分のことのように喜んだりする』という意味だそうです。赤福の表面の波形は、五十鈴川のせせらぎを、白い餅は川底の白石をあらわしています。昔は、伊勢神宮のすぐそばを流れる五十鈴川で身を清めてから、参拝したという話を聞いたことがありますが、赤福の由来が高尚な教えにあるとは知りませんでした。

 言葉の由来は、確かなことがわからないことも多いですが、それでもいろいろな説に触れるだけでも楽しめます。
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2022年10月24日

「日本人が忘れてはいけない美しい日本の言葉」

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 国語学者で、「日本国語大辞典」初版の編集長を務めた著者が「日本国語大辞典」第 2 版を参考に書いた本です。ほぼ半月で仕上げたと言い訳めいた説明が最初にあるとおり、不備な点が散見されますが、わたしにとっては、これまで意識したことのない日本語に触れる機会になりました。

 それは、洒落言葉です。現代において、言葉は短くされるいっぽうのような気がします。たとえば、ダイレクトメッセージなどでは、『り』は『了解』を意味するそうです。

 しかし、言葉を付け足した洒落言葉が、かつては数多くあったようです。この本で紹介されているのは、地名に絡んだものです。『その手は桑名の焼き蛤』、『恐れ入谷の鬼子母神』、『嘘を築地の御門跡』、『堪忍信濃の善光寺』、『なんだ (涙) は目にある神田は東京』などです。

『その手は桑名の焼き蛤』の場合、『その手は食わない』と言えば済むところを『桑名』にひっかけて、その地の名物『焼き蛤 (蛤を殻つきのまま火で焼いたり、蛤のむき身を串に刺してつけ焼きにしたりした料理)』を付け足しています。『恐れ入谷の鬼子母神』の場合、『恐れ入る』の『入る』に地名『入谷』をひっかけて、その地にある有名な『鬼子母神』を付け足しています。

 別になくてもいいことを付け足すことにより、おどけている様子や皮肉めいた印象が加わります。遊び心が感じられ、無駄なものを徹底的に排除する流れとは逆の余裕があるように、わたしには思われました。

『嘘をつく』と築地を掛け、さらに、その地にある本願寺とつなげている『嘘を築地の御門跡』(門跡は、幕府が制定したもので、出家した皇族が住職を務める格式の高い寺院) などは、真っ向から『嘘をつくな』というより、当たりが柔らかく、好ましく思えました。同様に、『堪忍しなさい』というより、『堪忍信濃の善光寺』のほうが、言われるほうも仕方がないと思える気がします。

 ときには、言葉に何か付け足すことも大切なのかもしれません。
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2022年09月26日

「これを大和言葉で言えますか?」

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知的生活研究所 著
青春出版社 出版

 日本語に注目した書籍なのに、誤字 (『需要』とすべきところが『重要』、『カタカナ』とすべきところが『カナカナ』と表記されたりしています)、読みの誤り (『女丈夫』を『じょじょうふ』ではなく『おんなじょうぶ』と説明されたりしています) や語源の誤り (『つつがない』の語源が、その語より新しい『ツツガムシ』にあるとされています) が見つかったのは、少し残念です。

 ただ、大和言葉を意識する良い機会になりました。一番印象に残っているのは、月の呼び名です。こんなにあったのかと驚きました。

 月齢ごとに、これだけの呼び名があるそうです。

1 日……『新月』『朔 (さく)』
2 日……『二日月 (ふつかづき)』『既朔 (きさく)』
3 日……『三日月』『眉月 (まゆづき・びげつ)』
7 日〜 8 日頃……『上弦の月』(『上弦の月』や『下弦の月』の月は、『半月 (はんげつ)』や『弓張月 (ゆみはりづき)』とも呼ばれます)
13 日……『十三夜月 (じゅうさんやづき)』
14 日……『小望月 (こもちづき)』『幾望 (きぼう)』
15 日……『十五夜の月』『望 (ぼう)』『三五の月 (さんごのつき)』
16 日……『十六夜の月 (いざよいのつき)』
17 日……『立待月 (たちまちづき)』
18 日……『居待月 (いまちづき)』
19 日……『臥待月 (ふしまちづき)』『寝待月 (ねまちづき)』
20 日……『更待月 (ふけまちづき)』『亥中の月 (いなかのつき)』
22 日〜 23 日頃……『下弦の月』
26 日……『有明月 (ありあけづき)』
30 日頃……『三十日月 (みそかづき)』『晦日 (つごもり)』

 月を待つという習慣をもたない日常を送っているので、これらの呼び名から、空を見上げて月を待っていた頃の暮らしを少しばかり想像することができました。
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