2025年09月01日

「書くひとのための感情を表すことば 430」

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ながたみかこ 著
笠間書院 出版

 ひとの性格や感情をあらわすことば、なかでも和語 (大和言葉) や時代を感じる古風な表現を中心に構成されています。古い言い回しを自分のボキャブラリーに加えると、古い作品を読んだとき、より楽しめる気がします。

 同時に、そんな古風な表現のニュアンスを理解できるひとがこれからは減っていく気もしました。たとえば、『あぐらをかく』は、なんの努力もせずにその立場のうまみを吸っているさまをあらわしていますが、著者は、『最近は和室が減ってあぐらをかく人も減ってきているので、この語もそのうち死語になってしまうのかもしれません』と書いています。

 ほかにも、武張る (武士のように猛々しい様子を見せること)、腰巾着・根付衆 (いずれも、人に付き従って離れないさま)、昼行燈 (ぼんやりとしていて役に立たない人のこと) なども、武士、腰巾着、根付、行燈を見る機会が減るとともに、具体的なイメージがわかりづらくなるかもしれません。つくづく、ことばは生き物だと思います。

 もちろんこの本で、知らない用語、用法、語源などを学ぶこともできました。ほのぼのとした良さが伝わってきたのは、円居る (まどいる) ということばです。『人々が輪の形で座ることを「円居」といい、そこで楽しく団欒することを「円居る」』というそうです。パンデミックを経験したせいか、温かいことばだと感じました。

 また、いまほど便利な暮らしをしていなかったころの良さを感じたことばに、「可惜夜 (あたらよ)」や「かそけし」があります。「可惜夜」は、『明けてしまうのが惜しい、眺めのよい夜』という意味です。夜も煌々としている都市部で過ごしていると、夜らしい眺めに縁がありません。「かそけし」は、『目を凝らしてようやく分かるほどのわずかな光や、耳をすまさなければ聞こえないほどの小さな音。そういったかすかな状態』をいうようです。漢字だと「幽し」と書くようです。ひっそりとした奥深さが感じられます。

 そのほか、『張り子の虎』に、『見かけ倒しで中身が伴わない人』という意味があることは知っていましたが、『張り子の虎は首がゆらゆらと動くように作られているため、首を振る癖のある人やイエスマン』を指すこともあるとは知りませんでした。

 語源としておもしろかったのは、『あこぎ』です。『三重県の阿漕ヶ浦 (あこぎがうら) で密漁を重ねて捕えられ、簀巻きにされた漁師がいた』ことから生まれた表現だそうです。『笑壺に入る (えつぼにいる)』は、『笑い転げたり笑い興じたりなど、大きい喜びや笑いのようす』をあらわしていますが、ここから『ツボに入った』という現代の表現ができたようです。

 似た表現が集められているので、それぞれの差異に目を向けたり、言い換えを考える機会をもてたり、楽しみ方は、そのほかにもいろいろあります。わたしにとっては、盛りだくさんでお得感のある本でした。
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2025年07月10日

「理解という名の愛がほしい おとなの小論文教室。II」

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山田 ズーニー 著
河出書房新社 出版

 シリーズのうち、「おとなの小論文教室。」と「17歳は2回くる おとなの小論文教室。(3)」のあいだに出版された本作を読んでいなかったので、読んでみました。読んで、はっとしたことが、ふたつありました。

 ひとつは、コミュニケーションの成立要件です。お互いわかりあえないことは、よくあります。話しあったらわかりあえるという考え方を、わたしは幻想だと思っています。ただ、その理由について考えたことがありませんでした。

 著者は、仕事上のある経験を紹介しながら、『ゴールのズレているもの同士に、コミュニケーションは成り立たない』と、述べています。つまり、コミュニケーションが成り立つには、なんとなく同じ方向を向いているレベルではなく、きっちりゴールが一致している必要があるのです。たとえば、双方がそれぞれ重要なポイントと信ずる内容を語りあっても、双方のゴールが違えば、ポイントとなることがらも異なり、『「情報」が、「情報」にならず。「伝達」が「伝達」にならない』と、著者は説明しています。そんな対立を経た双方に、わだかまりが残ってしまうこともあり得るでしょう。

 では、どうするべきなのでしょうか。もちろん、ゴールを一致させるという意見もあるとは思いますが、著者は、妥協することなく、自らが目指したゴールを実現すれば、相互理解の道が開かれるといいます。わかりあえなかった相手がその成果を見て、こちらの主張に理由があったと納得し、また気持ちがつながることもあるというのです。

 もうひとつ、はっとしたことは、悪意の伝播です。著者は、『どうして、悪意は、強いものから、弱いものへ、権力のあるものから、ないものへ、おとなから、こどもへと、はけ口を求めるのだろう』と、書いています。悪意をぶつけられると、ひとは弱いから、悪意を第三者にぶつけて、自らのストレスをリレーしてしまいます。だからこそ、『自分が弱いから、まわりをよくして、世の中をよくして、まわりから支えていただく、という方向も考えなければ』と著者はいい、『今日、よい連鎖を自分から起こせるか?』と、自らに問うています。

 ぶつけられた悪意をより弱いものにリレーするのは、いともたやすいのに、よい連鎖を起こすのは、このうえなく難しく感じられます。だから、著者のように、今日、よい連鎖を起こせるか、自らに問い続けたいと思いました。悪意をぶつけてくるようなひとと関わってしまって運が悪かったで終わらせず、なにができるか考えた著者に好感がもてました。
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2025年02月19日

「武士語で候。」

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もんじろう運営委員会 著
総合法令出版 出版

『もんじろう』と呼ばれるサイトでは、標準的な日本語を、大阪弁・津軽弁といった方言や武士語に変換してくれます。この本は、その『もんじろう』から武士語だけを抜粋したものです。

 地理的に離れた場所のひとたちとコミュニケーションをとることはあっても、時間的に遠い存在である武士のことばを理解したり使ったりする必要に迫られないだけに、遊び心が刺激され、頭の体操にもなりました。ななめ読みでも、ちょっとした気づきが得られるかもしれません。

 たとえば、武士が生きた時代は、移動するには、歩くしかありませんでした。例外は、経済的に恵まれたひとたちが坐ったまま移動できる駕籠です。

 現代の『車』も『タクシー』も武士語にすると駕籠になるのは、想像がつきますが、現代の『地下鉄』を『地中長駕籠 (ちちゅうながかご)』と言い換えているのは、苦し紛れといった感があります。ただ、武士が生きた時代には地下鉄など影も形もなかったので、仕方ありません。江戸時代が終わった 1867 年から地下鉄が開通した 1927 年まで 1 世紀も経っていないことを考えると、武士の時代が遠いようにも近いようにも感じられます。

 武士の時代を意外に近く感じられたのは、『改易』や『口入れ』です。『改易』は、広辞苑では「官職をやめさせて他の人に代わらせること」とか、「所領や家禄・屋敷を没収すること。江戸時代の刑では蟄居(ちっきょ)より重く、切腹より軽い」と説明されています。現代語の『リストラ』の言い換えに、この『改易』が選ばれています。いっぽう、『口入れ』は、広辞苑で 3 番目の意味として「奉公人などの世話をすること」とあり、現代語の『人材派遣』に該当します。『人材派遣』は、バブル経済崩壊後に増えた印象がありますが、形態としては、特別新しいわけではないのだと思いいたりました。

 ことば遊びとしての武士語を考案したひとに興味がわきました。
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2025年01月30日

「カタカナ語 すぐ役に立つ辞典」

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日本語倶楽部 編
河出書房新社 出版

 わたしにはカタカナ語を多用するきらいがあるのではないかと常々不安に感じています。身を置いている業界は、カタカナ語で溢れていると言われていて、わたしもその影響を受けているのではないかと。ただ、多用と適度の境界を知るのは難しそうです。国語辞典に載っていないカタカナ語だからといって、伝わりにくいとも言い切れない気がします。もしかしたら、カタカナ語だけを取りあげた、こういった本は、一助になるかもしれません。

 この本では、カタカナ語を次のように分類しています。この分類だけで、カタカナ語が日本語でどういった位置づけにあるか窺い知ることができます。

1. 「日本語で言えよ!」とツッコミたくなるカタカナ語
2. "意識高い系" ビジネスパーソンが使いたがるカタカナ語
3. よく耳にするけどちゃんとした意味は危ういカタカナ語
4. 外国人には通じない…なぜって日本人専用のカタカナ語
5. 日本語よりしっくりくるハマりすぎのカタカナ語
6. 上品な香りが漂うセレブリティなカタカナ語
7. こっそり学んでおきたい時代先取りのカタカナ語
8. さらりと使いこなしたいデキる大人のカタカナ語
9. 一生使いそうにないけど知っておくべきカタカナ語

 5. に分類されるカタカナ語は使ってよさそうですが、1. に分類されるものは避けたいものです。ただ、わたしは使っていました。具体的には『ソリューション』や『イシュー』です。『ソリューション』は、業界内でも多用され過ぎた印象があるので、使わないほうがよさそうですが、『イシュー』は、改善すべき問題点のときも、議論の候補となる論点のときも、幅広く使え、ひとによって分類がわかれることをまとめられる点が便利なので、5. に分類されることばだと思っていました。

 2. に『エビデンス』が 分類されていたのは、意外でした。意識が高くなくとも、判断・決定には『エビデンス』(『根拠』、『証拠』など) が必要なので、1. に分類されるものだと思っていました。

 分類は、そのほかにも気になる点が多々あり、カタカナ語をネタにした軽口と受けとるほうがいいかもしれませんが、ひとつひとつの解説は役立つと思います。わたしは、これから聞く機会がありそうなことばを新しく覚えることができました。たとえば、『トゥイナー』や『リアルクローズ』です。どちらも、わたしにとって身近なことがらをあらわしています。前者は、大金持ちでも貧乏でもないひとたちを指していて、between (中間) からきた造語、つくったのは、FOX ニュースの人気司会者だったビル・オライリー氏だそうです。後者は、普段着を意味し、実用性に長け、仕事やデートでふつうに着られるオシャレな服などをイメージしたことばのようです。

 おそらく今後もカタカナ語は増え続けるので、ときどきは、日本語にしたほうがわかりやすいカタカナ語ではないかチェックしたり、新しいことばを仕入れたりする機会があってもいいかもしれません。
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2024年12月23日

「いきな言葉 野暮な言葉」

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中村 喜春 著
草思社 出版

 著者は、芸者としても通訳としても活躍されたようです。そんな著者が選んだ言葉を見ると、言葉もまた、時代を映す鏡なのだと再認識しました。

 そんな時代もあったと思い出したのは、『褄はずれ』(つまはずれ)と『立てすごす』です。『褄はずれ』は、広辞苑では、『取りまわし。身のこなし。』と、あります。この本では、『お茶の飲み方でも、ご飯の食べ方でも、襖の開け方でも、全部の動作を「褄はずれ」と言います』と、説明されています。使用例として、『あの人は本当に褄はずれの上品な人ネ』とか『あの奥さんはどうも褄はずれがガサツだから、お育ちがあまりよくないんじゃないの』などが、あげられています。

 品格や所作が話題にのぼる機会が以前より少なくなって、こういった言葉が聞かれなくなったのでしょうか。その代わりにどんな話題が増えたのか、すぐには思いつきませんが、損得や貧富の話題にとって代わられていないことを願います。

『立てすごす』は、『女が男の人の面倒を見ることを言います。女性のヒモになる男や、女の人に養われてお小遣いをせびる、そんなタイプの男性の面倒を見ることは含みません。』と、書かれてあります。将来性が感じられるものの、貧しい大学生の学費や生活費の面倒を見たり、仕事の行き詰った実業家などを経済的に支えたりすることを指すようです。『女の人に立てすごされて立派になった男性は、例外なく女性 (奥様) を大切にしておられます。』と、著者は言います。いまは、不遇時代に支えてくれた女を大切にするひとより、新たにトロフィー・ワイフを手に入れるひとのほうが一般的かもしれません。昔は、トロフィー・ワイフにあたる言葉すらなかったのかもしれないと思うと、時代の流れが悲しく見えます。

 わたしが、特に共感できた著者のことばは、『付かず離れず』と『引っ込み』です。『付かず離れず』は、『ほどほどに人とお付き合いすること。』とあります。『のっぴきならない羽目に陥る』ことなく、『ほどほどに付かず離れずのお付き合い』が大切だと著者は教えられたそうです。

 そして、『付かず離れずのお付き合いで、それでもお互いに助け合い、支え合ってきました』と、書かれてあります。相手に踏み込み過ぎず、助け合い、支え合える距離を保つことは、わたしも見習いたいと思いました。

『引っ込み』は、さまざまな場面で使えるそうです。仕事をやめるときも、男女が別れるときも、きれいに終えることは難しく、大切だということです。これからのわたしに必要なことだと思いました。

 かつての価値観に触れ、少し理解できた気がします。
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